熊本熊的日常

日常生活についての雑記

塩むすび

2010年12月28日 | Weblog
昼に塩むすびを握って食べた。ご飯に塩をまぶしただけの簡単なものだが、こういうものにこそ旨いという感覚の源泉が詰まっているように思う。

先日、朝日新聞のサイトのなかで与那国海塩という会社の創業者のことが紹介されていた。その人に興味を覚えたが、だからといって与那国島まで行くわけにもいかないので、その人が作っているものを味わってみようと思った。その人が作っているのは塩だ。紹介記事を読んだ日のうちに、その塩を買いに行った。

平釜という昔ながらの道具を使って、昔ながらの方法で作っているそうだ。昔ながらの作り方は、作り手に熟練を要求するので、すぐには商品になるような塩はできないという。塩作りの工程についても興味はあるのだが、ここでは触れない。与那国海塩は創業9年目にしてようやく黒字になったそうだ。

創業者の伊藤さんが何故、生まれ故郷の仙台でもなく、長年暮らした東京でもない与那国島に渡って、それまで経験したことのない塩作りを始めることにしたのか、というようなことは記事からはわからない。勝手な想像だが、それまでの自分なら選択しないようなことを敢えて実行することで、何か大きな転換を図りたかったのではないだろうか。伊藤さんがその決断をしたのは、ちょうど今の私くらいの年齢の時だ。置かれた状況は人それぞれに違ってはいても、50年近い年月を生きれば、否応なくそこに自分の生活という現実ができあがる。問題は、それを素直に受け容れ継承できるかということだ。

今、比較的安定した世界に暮らす人々の平均寿命は70年を超えている。日本に至っては80年をも超えている。今年7月26日に厚生労働省から発表された「平成21年簡易生命表」によれば、男性の平均寿命は79.59年、女性が86.44年で、いずれも過去最高を記録した。しかし、「人生50年」といわれていたのは、それほど昔のことではない。日本人の平均寿命が60年を超えたのは男性が1951年、女性は1950年のことだ。それまでの何百年あるいは千数百年に亘って積み上げられた文化や習慣は、「人生50年」基準で組み上げられているのではないだろうか。そこに80年の現実を当てはめることで、生活感覚という部分で違和感を覚えるのは当然なのかもしれない。確かに現象としては、離婚であったり失業であったりというような家庭も含めた社会生活での出来事があるにしても、その背後には自分自身の肉体的精神的現実とそれを取り巻く環境の成り立ちとの乖離が、なんとなく生き辛い世の中の基にあるような気がする。

さて、おにぎりというのはあつあつのご飯を握るだけという単純なものだ。塩むすびは、握る手のひらに塩をつけるだけのことだ。握るときにご飯の熱さを我慢する必要はあるが、それ以外にこれといったものはない。誰でもできる。ご飯だけというシンプルな食べ物を塩という昔ながらの調味料で極上に美味く頂く。そういうことのなかに、その文化の水準というようなものが表現されているように思う。米にしても塩にしても、それを収穫するまでに言いようの無いほど多くの手間隙、労力、技能、熟練、労苦、根性、愛情、情熱、その他諸々を注ぎ込んでいながら、見た目には単純この上ない姿。手に持てば心地よい暖かさで、口に入れれば味を超越して幸福感が広がる。こういうものに豊かさを感じないとしたら、我々は永久に「豊か」にはなれないのではないだろうか。