汐留ミュージアムで開催中の「バウハウス・テイスト バウハウス・キッチン」を観てきた。バウハウスは1919年にヴァイマルに設立され、1925年にデッサウへ移転、さらに1932年にベルリンへ移転し、翌1933年にナチスによって閉校された。わずかに14年ほどの歴史しかないのだが、その影響は大きく、こうして現在でもバウハウスをテーマにした企画展が開催されている。
14年間に校長は3人が務めている。今回の展示はデッサウ時代の前半、ヴァルター・グロピウス校長の時代を中心にしたものである。校長の方針によって多少の差異はあるだろうが、基本的には当時の工業技術を基に、人々の生活を豊かにするためのデザインの開発が指向されていたようだ。バウハウスというと直線的なデザインのイメージがあるが、それは大量生産に向いたデザインであること、当時のモダニズムを反映していることによるものだ。
バウハウスは大量生産を前提にした規格化と、その制約のなかでの意匠の工夫によって、人々の生活を豊かにすることを目指していた。昨年春にBunkamuraで企画展が開催されていたパウル・クレーもバウハウスで教鞭を執っていた。彼はグロピウスから招聘を受けてバウハウスの教授陣に加わっている。当時の教員住宅は一棟を2世帯で住むようになっていたそうだが、クレーと同じ棟に住んでいたのがワシリー・カンディンスキーだった、ということを今日の企画展で知った。
工業化と生活の豊かさの関係を問うものとして、バウハウスに先立つ19世紀末にイギリスで起こった「アーツ・アンド・クラフツ運動」がある。こちらは、工業化のなかで失われた工芸を生活のなかに取り戻そうという運動だ。この運動を主導したウイリアム・モリスがデザインした壁紙などに象徴されるように、大量生産の技術を用いながらも意匠において手仕事的要素を濃厚に打ち出している。
バウハウスもアーツ・アンド・クラフツも目指すところは生活の豊かさを実現することなのだが、「豊かさ」の意味が微妙に違う。バウハウスが家事労働の軽減という合理性に重きを置いているのに対し、アーツ・アンド・クラフツは精神面の充足を重視していると思う。どちらが良いとか悪いということではなく、このあたりに欧州大陸とイギリスの文化の違いが現れているように見えるのだが、どうだろう。個人的にはバウハウスのようなテイストは好きではない。かといって、モリスの壁紙も欲しくはない。ただ、どちらの思想にも共感はできる。
今という時代は、ひとりで老いることを前提に身の回りの物事を考えなければならない。かなり高い確率で近い将来においては、年金制度も介護保険制度も破綻しているだろうし、それに代わるセイフティネットなど期待し得ない。結局、自分のことは自分で考えるという、あたりまえのことを強いられるのだが、そのなかで改めて生きるとはどういうことなのかということを考え直さないわけにはいかない。バウハウスの考え方も、モリスたちの考え方も、それぞれに「豊かさ」の中身を吟味した上で、それぞれの定義に拠って「豊かさ」を実現するための具体的行動を起こしている。少なくとも既存の経済指標では、日本は成長フェーズから衰退フェーズに切り替わった。当然、そこでの生き方も前提となる価値観も従来のものとは違ったものが必要になるはずだ。「違ったもの」といっても、未体験の世界なのだから、正解など無い。それを自分なりに問い直さなければならないのが、今という時代だ。
ところで、今日は久しぶりにキフキフでお昼にトリュフのリゾットを頂いた。原さんのところに例の黒砂糖を持参し、ついでに個展の案内葉書も店内に置かせていただいた。たまたま店内に置いてあった「Kif-kif通信 Vol.4」を手にした。この店が開店して1年以上になるが、店名の意味を尋ねてみようと思いつつ、そうする機会に恵まれぬまま今日に至っていたのだが、「Kif-kif通信」の表紙にちゃんと書いてあった。
「Kif-kif(キフキフ)は、フランス語で「同じ」という意味です。「いつも同じであること」を何よりも大切にしたいという思いでお店の名前をキフキフにしました。」
人寄場所というのは、こういう場であって欲しいと思う。場所でも人でも軸が振れないというのは魅力的だ。そういう場所や人を自分の生活圏に持つということは、それこそ豊かなことだと言える。
14年間に校長は3人が務めている。今回の展示はデッサウ時代の前半、ヴァルター・グロピウス校長の時代を中心にしたものである。校長の方針によって多少の差異はあるだろうが、基本的には当時の工業技術を基に、人々の生活を豊かにするためのデザインの開発が指向されていたようだ。バウハウスというと直線的なデザインのイメージがあるが、それは大量生産に向いたデザインであること、当時のモダニズムを反映していることによるものだ。
バウハウスは大量生産を前提にした規格化と、その制約のなかでの意匠の工夫によって、人々の生活を豊かにすることを目指していた。昨年春にBunkamuraで企画展が開催されていたパウル・クレーもバウハウスで教鞭を執っていた。彼はグロピウスから招聘を受けてバウハウスの教授陣に加わっている。当時の教員住宅は一棟を2世帯で住むようになっていたそうだが、クレーと同じ棟に住んでいたのがワシリー・カンディンスキーだった、ということを今日の企画展で知った。
工業化と生活の豊かさの関係を問うものとして、バウハウスに先立つ19世紀末にイギリスで起こった「アーツ・アンド・クラフツ運動」がある。こちらは、工業化のなかで失われた工芸を生活のなかに取り戻そうという運動だ。この運動を主導したウイリアム・モリスがデザインした壁紙などに象徴されるように、大量生産の技術を用いながらも意匠において手仕事的要素を濃厚に打ち出している。
バウハウスもアーツ・アンド・クラフツも目指すところは生活の豊かさを実現することなのだが、「豊かさ」の意味が微妙に違う。バウハウスが家事労働の軽減という合理性に重きを置いているのに対し、アーツ・アンド・クラフツは精神面の充足を重視していると思う。どちらが良いとか悪いということではなく、このあたりに欧州大陸とイギリスの文化の違いが現れているように見えるのだが、どうだろう。個人的にはバウハウスのようなテイストは好きではない。かといって、モリスの壁紙も欲しくはない。ただ、どちらの思想にも共感はできる。
今という時代は、ひとりで老いることを前提に身の回りの物事を考えなければならない。かなり高い確率で近い将来においては、年金制度も介護保険制度も破綻しているだろうし、それに代わるセイフティネットなど期待し得ない。結局、自分のことは自分で考えるという、あたりまえのことを強いられるのだが、そのなかで改めて生きるとはどういうことなのかということを考え直さないわけにはいかない。バウハウスの考え方も、モリスたちの考え方も、それぞれに「豊かさ」の中身を吟味した上で、それぞれの定義に拠って「豊かさ」を実現するための具体的行動を起こしている。少なくとも既存の経済指標では、日本は成長フェーズから衰退フェーズに切り替わった。当然、そこでの生き方も前提となる価値観も従来のものとは違ったものが必要になるはずだ。「違ったもの」といっても、未体験の世界なのだから、正解など無い。それを自分なりに問い直さなければならないのが、今という時代だ。
ところで、今日は久しぶりにキフキフでお昼にトリュフのリゾットを頂いた。原さんのところに例の黒砂糖を持参し、ついでに個展の案内葉書も店内に置かせていただいた。たまたま店内に置いてあった「Kif-kif通信 Vol.4」を手にした。この店が開店して1年以上になるが、店名の意味を尋ねてみようと思いつつ、そうする機会に恵まれぬまま今日に至っていたのだが、「Kif-kif通信」の表紙にちゃんと書いてあった。
「Kif-kif(キフキフ)は、フランス語で「同じ」という意味です。「いつも同じであること」を何よりも大切にしたいという思いでお店の名前をキフキフにしました。」
人寄場所というのは、こういう場であって欲しいと思う。場所でも人でも軸が振れないというのは魅力的だ。そういう場所や人を自分の生活圏に持つということは、それこそ豊かなことだと言える。