あまり人混みのなかを歩くことがないので、世間の様子に疎いのだが、クリスマスイブともなると、それなりに盛り上がるものなのだろうか。勤務先では外国人と一緒に働いているのだが、今日は海外の反応が悪い。仕事で連絡をしても返事がなく、ロンドンは半ドンだ。おかげで簡単な作業なのに前に進まないということになる。夜食を買いに、勤務先近くのベーカリーへ行くと、店員が全員、サンタの帽子を被っていた。クリスマスのベーカリーといえば、イギリスではクリスマス・プディング、ドイツではシュトーレンがつきものだ。どちらも、それほど美味しいものだとは思わないが、そもそも保存食なので味は二の次でよいのだろう。なぜか都内のベーカリーでは圧倒的にシュトーレンの扱いが多く、クリスマス・プディングは見かけない。
1989年のクリスマスはドイツのアウグスブルクという町で過ごした。その年の夏にホームステイをした家から往復の航空券付で招待状が届いたのである。以前にも書いたかもしれないが、「家」といっても独居老人だ。当時77歳のご婦人で、68歳の妹さんとお金を出し合って、航空券を手配してくれたのである。当時、私はイギリスのマンチェスターという町で暮らしていた。実は、このとき、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートのチケットを押さえ、ウィーンで年末年始を過ごす予定にしていた。あのときはクラウディオ・アバドゥが指揮をすることになっていたと記憶している。しかし、せっかくの好意を無にするわけにはいかないので、ウィーンのほうはキャンセル料を払い、アウグスブルクで過ごすことにした。
アウグスブルクの家に着くと、妹さんがテレビのニュースを観ていた。ちょうどベルリンの壁が打ち壊されるところが映っていた。歴史が変わる瞬間だ。その日のテレビはずっと、ベルリンの壁ばかり映していた。
ドイツのお菓子というとバウムクーヘンを挙げる人が多いかもしれないが、私の限られた経験のなかでは、ドイツでバウムクーヘンを見たことがない。しかし、シュトーレンは確かにあった。日本で年始に親戚を訪ねて回るように、そのときアウグスブルクでは、家主のベルタ・クルークさんと一緒に、彼女の息子さんたちの家を訪ねたり、妹のレジー・ナウマンさんと一緒に、彼女の娘さんの家を訪ねたりした。どこでもシュトーレンはあるのだが、それぞれに贔屓のベーカリーがあるらしく、どこもそれぞれに違ったものに見えた。
ベルタさんには息子さんがふたりいて、ふたりとも医者だ。次男のほうがベルタさんの家から徒歩10分ほどのところに住んでいるのだが、彼は教会の聖歌隊のメンバーでもあった。それで、ベルタさんといっしょに彼の聖歌隊がいる教会のクリスマスミサに出かけた。見よう見真似で十字を切ったり、膝を折ったりして、私にとっては意味不明のミサを聴き、賛美歌を聴く。「賛美歌が上手い教会」というものがあるのだそうで、ベルタさんお勧めの教会のミサをはしごした。でも「説教が長い教会」はパスなのだそうで、今となってはいくつの教会を回ったのか記憶に無いのだが、言葉はわからなくとも楽しかったという暖かな感覚だけは残っている。
ベルタさんの家はアウグスブルク市内だが、レジーさんのお宅は郊外のボービンゲンという村だ。アウグスブルクからボービンゲンまで鉄道で行く。駅前からバスに乗って、終点のバス停のまん前がレジーさんの家があるアパートだった。ここは森の端に位置している。クリスマスの時期は凍て付くような寒さで、森全体が凍り付いている。日照時間は短いのだが、日が昇ると、外では雨が降っているような音がする。雨ではなくて、陽に照らされて木や葉に付着していた氷が落ちてくる音なのである。そんな森の中を歩いて上を見上げると、降りしきる氷の粒に木漏れ日が反射して、おとぎの国にでも来たような幻想的な風景に包まれる。寒さも忘れ、その場に立ち尽くしてしまう美しさだった。
何十回もクリスマスを過ごしたけれど、あの1989年のクリスマスが、私のなかでは唯一のクリスマスだ。まだ漠然と未来を明るいものと信じていた、人生のなかで最も幸福な時代の記憶かもしれない。
1989年のクリスマスはドイツのアウグスブルクという町で過ごした。その年の夏にホームステイをした家から往復の航空券付で招待状が届いたのである。以前にも書いたかもしれないが、「家」といっても独居老人だ。当時77歳のご婦人で、68歳の妹さんとお金を出し合って、航空券を手配してくれたのである。当時、私はイギリスのマンチェスターという町で暮らしていた。実は、このとき、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートのチケットを押さえ、ウィーンで年末年始を過ごす予定にしていた。あのときはクラウディオ・アバドゥが指揮をすることになっていたと記憶している。しかし、せっかくの好意を無にするわけにはいかないので、ウィーンのほうはキャンセル料を払い、アウグスブルクで過ごすことにした。
アウグスブルクの家に着くと、妹さんがテレビのニュースを観ていた。ちょうどベルリンの壁が打ち壊されるところが映っていた。歴史が変わる瞬間だ。その日のテレビはずっと、ベルリンの壁ばかり映していた。
ドイツのお菓子というとバウムクーヘンを挙げる人が多いかもしれないが、私の限られた経験のなかでは、ドイツでバウムクーヘンを見たことがない。しかし、シュトーレンは確かにあった。日本で年始に親戚を訪ねて回るように、そのときアウグスブルクでは、家主のベルタ・クルークさんと一緒に、彼女の息子さんたちの家を訪ねたり、妹のレジー・ナウマンさんと一緒に、彼女の娘さんの家を訪ねたりした。どこでもシュトーレンはあるのだが、それぞれに贔屓のベーカリーがあるらしく、どこもそれぞれに違ったものに見えた。
ベルタさんには息子さんがふたりいて、ふたりとも医者だ。次男のほうがベルタさんの家から徒歩10分ほどのところに住んでいるのだが、彼は教会の聖歌隊のメンバーでもあった。それで、ベルタさんといっしょに彼の聖歌隊がいる教会のクリスマスミサに出かけた。見よう見真似で十字を切ったり、膝を折ったりして、私にとっては意味不明のミサを聴き、賛美歌を聴く。「賛美歌が上手い教会」というものがあるのだそうで、ベルタさんお勧めの教会のミサをはしごした。でも「説教が長い教会」はパスなのだそうで、今となってはいくつの教会を回ったのか記憶に無いのだが、言葉はわからなくとも楽しかったという暖かな感覚だけは残っている。
ベルタさんの家はアウグスブルク市内だが、レジーさんのお宅は郊外のボービンゲンという村だ。アウグスブルクからボービンゲンまで鉄道で行く。駅前からバスに乗って、終点のバス停のまん前がレジーさんの家があるアパートだった。ここは森の端に位置している。クリスマスの時期は凍て付くような寒さで、森全体が凍り付いている。日照時間は短いのだが、日が昇ると、外では雨が降っているような音がする。雨ではなくて、陽に照らされて木や葉に付着していた氷が落ちてくる音なのである。そんな森の中を歩いて上を見上げると、降りしきる氷の粒に木漏れ日が反射して、おとぎの国にでも来たような幻想的な風景に包まれる。寒さも忘れ、その場に立ち尽くしてしまう美しさだった。
何十回もクリスマスを過ごしたけれど、あの1989年のクリスマスが、私のなかでは唯一のクリスマスだ。まだ漠然と未来を明るいものと信じていた、人生のなかで最も幸福な時代の記憶かもしれない。