熊本熊的日常

日常生活についての雑記

春画

2010年12月08日 | Weblog
かねがね春画で描かれる性器は何故あれほど大きいのだろうと疑問に感じていた。学問の世界での定説なのか、個人的見解なのかは知らないが、国際日本文化研究センターの早川聞多教授が芸術新潮のなかで語っていることに、なるほどと納得できた。少し長くなるが以下にその部分を引用する。

「男女の顔と男女の性器が並置して描かれ、しかも性器と顔が同等の大きさ、緻密さで描かれているということは、絵師たちは人間の表と裏を同等に見つめていたということではないでしょうか。人間には表と裏、公の顔と私の顔があります。表層の意識と深層の無意識、あるいは理性と欲望。欲望は理性でコントロールすべしといわれていますが、古今東西、どれほど精神医学が発達しても、まさかあの人が……と思う意外事は後を絶ちません。春画を見渡していますと、古来日本では、人間の極端な二面性を理屈ではなく、笑いによって調和できるんじゃないかと考える文化があったように思います。」(「芸術新潮」2010年12月号 35頁)

写真と違って絵画は人が描くものだ。物理的な写実を極めることもできようが、意識の写実を目指せば、心象風景のなかで大きな位置を占めるものが、物理的な関係性を超えて、大きく描かれることになる。例えば今の時期なら夜空が透き通るようにきれいだ。月が煌々と輝いて見える。しかし、それを写真に収めてみると、思いの外、月は小さくて自分が感じた美しさがそこに無いというようなことがある。これは自分が感じている月と実際に見えているはずの月とが同じではないということだ。春画に描かれている人達は男も女も楽しそうだ。そこには勿論、肉体的快感があるだろうが、それ以上に生命活動の基本として素直に性の在り様を受け容れるという姿勢が感じられる。もうすぐ正月だが、武士がお年始として春画を配りあうということもあったのだそうだ。性は本来的におめでたいものという認識が社会のなかにあったという。

ところで、女性の愛液がついたタオルは、その部分が乾くとパリパリなる。その匂いを嗅ぐと、海草のような匂いがする。その匂いを嗅いだとき、種の起源を見る思いがした。命の源は海であり、そこから様々な生物が進化を遂げ、人間もそのひとつなのだということが、腑に落ちるように納得できた。クールベ(Gustave Courbet)は仰向けに寝ている裸婦の陰部を描いて「世界の起源(L’Origine du monde)」と名づけているが、それが意味するところは単に子供が産まれるところというよりも、その奥の蜜壷に人間を超えた生命の源を見たのではないかと私は思っている。