なにがどう、というわけでもないのに慌しい日だった。先週、焼きあがった皿が10枚ほどあり、その高台を砥石で研磨する作業を、今日ようやく済ませることができた。この作業をすると、細かい削りカスが出るので、部屋の中にクリーナーをかける。ついでにトイレの掃除もして、こまごまとした片付け物をして、などとやっていると時間はすぐに経ってしまう。このほかに食事の支度と片付けもある。
家事をしながら音楽などを聴くこともあるのだが、近頃よく聴くのは「いきものばかり」とかBase Ball Bearの武道館ライブだ。いきものがかりの楽曲はドラマの主題歌とかCMに使われるものが多い所為もあるのかもしれないが、歌詞に引き込まれる。Base Ball Bearのほうはライブの所為もあるのだろうが、歌詞がよく聞き取れない。それでも、どちらもそれぞれに気に入っている。
ドラマの主題歌とかCMという特殊性もあるのだろうが、例えば「ありがとう」は、朝の連続テレビ小説の主題歌だけあって、連続して聴いても飽きない。NHKの連続テレビ小説というのは156回なのだそうだ。歌詞の世界は一見したところベタなのだが、それに終始しないところに共感を呼ぶものがあるのだろう。この主題歌が使われた「ゲゲゲの女房」は平均視聴率が18.6%と前作を5ポイント以上上回る好調で、最終回は23.6%だったという。好調の要因のひとつに、これまでの主人公とは違って、フツーに夫を支えるフツーの妻であることが挙げられている。今の時代、妙に頑張ってしまうことにリアリティが得られないということなのだろう。これが「ありがとう」の歌詞
「でこぼこなまま積み上げてきた ふたりの淡い日々」
というところに対応する、と思う。私などは覇気が薄いので「淡い日々」ほどありがたいものはないと思うのだが、この歳になってなお、親からは無闇に「頑張れ」などと言われて苦笑したりする。この「頑張れ」というほど無責任な言葉はないと思うのだが、深い考えの無い人達なので黙って聞き流している。
他にも「ありがとう」の歌詞で気になったところを挙げると
「いまを ちょっとずつ重ねて」
というのも「淡い日々」と似たような考えが根底にあると思う。人生にまつわる殆どのことは「ちょっとずつ」重ねるしか他にどうしようもないことだと思うのだが、市場社会では常に最大化とか極大化が求められる。それは市場という世間でのことであって、それにどこまで付き合うかは個人の勝手なのだが、世間にべったりへばりつくことに最大の価値を見出す輩が多いので、なにかと問題が起こるのである。
「その声に寄り添っていく」
というのもいい。「声」に象徴される不定形のもので、人間関係が成り立っており、それは即ち自分自身の在り様でもある。しかし、形が無いということに不安を覚えるのか、無闇に実体を追求するのが世の中というものだ。
「誰かのために生きること」
「思いあうことに幸せ」
という姿勢が、今の時代に一番欠けていて、しかも求められているのではないだろうか。自分の身近でも、相手に要求するばかりで、自分から相手に何ができるか、ということを考えようともしない奴ばかりのような気がしてならない。
普通にありそうで、現実にはなかなか遭遇できない人の在り様の美しさが「ありがとう」の心なのだと思う。いつも誰にでも「ありがとう」と感じられる心持ちになりたいものだ。
家事をしながら音楽などを聴くこともあるのだが、近頃よく聴くのは「いきものばかり」とかBase Ball Bearの武道館ライブだ。いきものがかりの楽曲はドラマの主題歌とかCMに使われるものが多い所為もあるのかもしれないが、歌詞に引き込まれる。Base Ball Bearのほうはライブの所為もあるのだろうが、歌詞がよく聞き取れない。それでも、どちらもそれぞれに気に入っている。
ドラマの主題歌とかCMという特殊性もあるのだろうが、例えば「ありがとう」は、朝の連続テレビ小説の主題歌だけあって、連続して聴いても飽きない。NHKの連続テレビ小説というのは156回なのだそうだ。歌詞の世界は一見したところベタなのだが、それに終始しないところに共感を呼ぶものがあるのだろう。この主題歌が使われた「ゲゲゲの女房」は平均視聴率が18.6%と前作を5ポイント以上上回る好調で、最終回は23.6%だったという。好調の要因のひとつに、これまでの主人公とは違って、フツーに夫を支えるフツーの妻であることが挙げられている。今の時代、妙に頑張ってしまうことにリアリティが得られないということなのだろう。これが「ありがとう」の歌詞
「でこぼこなまま積み上げてきた ふたりの淡い日々」
というところに対応する、と思う。私などは覇気が薄いので「淡い日々」ほどありがたいものはないと思うのだが、この歳になってなお、親からは無闇に「頑張れ」などと言われて苦笑したりする。この「頑張れ」というほど無責任な言葉はないと思うのだが、深い考えの無い人達なので黙って聞き流している。
他にも「ありがとう」の歌詞で気になったところを挙げると
「いまを ちょっとずつ重ねて」
というのも「淡い日々」と似たような考えが根底にあると思う。人生にまつわる殆どのことは「ちょっとずつ」重ねるしか他にどうしようもないことだと思うのだが、市場社会では常に最大化とか極大化が求められる。それは市場という世間でのことであって、それにどこまで付き合うかは個人の勝手なのだが、世間にべったりへばりつくことに最大の価値を見出す輩が多いので、なにかと問題が起こるのである。
「その声に寄り添っていく」
というのもいい。「声」に象徴される不定形のもので、人間関係が成り立っており、それは即ち自分自身の在り様でもある。しかし、形が無いということに不安を覚えるのか、無闇に実体を追求するのが世の中というものだ。
「誰かのために生きること」
「思いあうことに幸せ」
という姿勢が、今の時代に一番欠けていて、しかも求められているのではないだろうか。自分の身近でも、相手に要求するばかりで、自分から相手に何ができるか、ということを考えようともしない奴ばかりのような気がしてならない。
普通にありそうで、現実にはなかなか遭遇できない人の在り様の美しさが「ありがとう」の心なのだと思う。いつも誰にでも「ありがとう」と感じられる心持ちになりたいものだ。