落語には茶碗を題材にしたものがいくつかあるが、この「茶金」もそのひとつだ。以前にこのブログでも「はてなの茶碗」というタイトルで取り上げている。
茶金こと茶屋金兵衛は京都木屋町に店を構える当代屈指の焼き物鑑定家。この人が眼に留めて、「はてな」と首を一回かしげると、その茶碗には100両の値打ちがつく、と言われるほどの人である。江戸で道楽に身を崩して、逃げるように京都へ流れてきて油屋を営んでいる八っあんが、音羽の滝の前にある水茶屋で弁当を食べ終えて一服しているところへ、この茶金が現れて茶を飲んだ。茶金はその汚らしい清水焼の数茶碗を取り上げて、「はてな」と首をかしげた。しかも、六回も。それを見ていた油屋は、嫌がる水茶屋のオヤジとすったもんだの末に10両でその茶碗を手に入れた。
一週間後、油屋はその茶碗を茶金の店に持ち込み、300両で買ってくれと言う。最初に応対した番頭は茶碗を見るなり「清水焼の茶碗はサラで6文、フルなら1文の値打ちもない」と冷たい返事。油屋は怒って番頭を殴りつけてしまう。騒動を聞いて店の奥から茶金が現れる。油屋は茶金に、この茶碗に見覚えはないか、と詰め寄る。茶金は茶碗のことを思い出し、「あれはぽたりぽたりと漏るのや」というのである。つまり、値打ち物どころか、安物のしかも不良品なのである。油屋が自分が使った茶碗をわざわざ持ち込んできたことに感じるものがあった茶金は、油屋が有り金はたいてその茶碗を手に入れたというので、茶碗をかたに油屋に10両貸し与えて、その場は一件落着。
数日後、茶金は近衛殿下の茶会に招かれる。そこでの雑談のなかで、「先日、こんな粗忽者がおりまして、」とその茶碗の話を語った。すると、殿下はそれが見たいと言い出し、茶金は早速持参する。殿下も茶碗が漏るのを不思議がり、色紙にその茶碗にまつわる歌をしたためる。茶金はその歌を喜び、茶碗と色紙を一緒にして仕舞っておく。
さらに数日後、近衛殿下がかしこき方にお目通りをした折に、この茶碗の話をする。すると、「その茶碗、朕が見たいぞ」とのたまう。すぐに茶金にその話が伝わり、茶金は立派な糸柾の箱を拵え、警護の役人が付いて、茶碗をご覧に入れることになった。やはり面白がって、このかしこきお方が短冊に歌を書き、箱にも一筆書き付けた。
茶碗はたちまち京の噂となり、欲しがる人が引きもきらない。最初は手元において置こうとした茶金だったが、1,000両の値が付いたときに手放してしまった。茶碗は水茶屋にあったときから全く変わらぬ清水焼の数茶碗だが、それに高貴なお方の御色紙、短冊、箱書きが付き、すっかり有名になってまった。茶碗そのものは数茶碗、つまり雑器だが、そこに様々なエピソードが付随することで、唯一無二の価値を持つに至るということだ。
今日、出光美術館の特別講座を聴講したのだが、そのテーマが「福建省の陶磁器と陶磁貿易」だった。主に16世紀から17世紀頃、中国から日本へ運ばれてきた陶磁器のことが語られた。最近になって当時の沈没船が発掘され、日中韓の陶磁貿易の一端がさらに明らかになったとのことだったが、その沈没船の話のなかで興味を覚えたのは、日本向けの荷のなかに、明らかに使用済みの器類があったということだ。
当時、中国といえば陶磁器生産の世界的な最先端地域であり、陶磁器は中国の主要輸出品でもあった。その中国から日本へ輸出された品物には、もちろん新品も多数あるのだが、中古品ばかりを集めて詰めた箱が、沈没船のなかから発見されたというのである。これは、当時の日本にそうした需要があるということを示すばかりではなく、今とは比較にならないほど危険の大きかった海上交通を利用してまで輸入するということは、それ相応の相場があったということでもある。雑器をそのものとしてではなく、威信財や茶道具として使うという、趣味というか美意識というか、ものの在り様に対する認識のスタイルのようなものがおもしろい。
今でこそ、茶道具というのは奢侈品になってしまったが、もともと茶道は禅宗を体現したものであり、その基本的な精神は、無いことを活かし有り合わせを活かすことだ。そこから「見立て」というものも生まれる。しかし、16-17世紀の沈没船から日本向けの中古茶碗類が大量に見つかるということは、既に当時において「見立て」が暴走して無の思想が形骸化していたということだろう。尤も、雑器を名物にするということは、無から価値を創り出すということでもある。
創造の過程に関心が向かわずに、市場価値という表層しか眼に入らない人が多いから、贋作にまつわる悲喜こもごもの話題が絶えない。それもまた人間というものの何事かを語るエピソードだ。表層しか見ない、見ようとしない、ということが悪いことだと言うのではない。むしろそうすることによって、我々は世間と円滑に折り合いをつけることができる。敢えて表層しか見ない、というのも生きる上での知恵だろう。しかし、表層であることがわかっていて、そこしか見ないというのと、表層が世界のすべてだと信じるのとでは、生きている心地がずいぶん違うのではないだろうか。
注:「茶金」についての記述は「五代目古今亭志ん生 名演集」(コロンビアミュージックエンタテインメント)のなかにある、NHKラジオで1956年1月27日に放送されたものに拠る。
茶金こと茶屋金兵衛は京都木屋町に店を構える当代屈指の焼き物鑑定家。この人が眼に留めて、「はてな」と首を一回かしげると、その茶碗には100両の値打ちがつく、と言われるほどの人である。江戸で道楽に身を崩して、逃げるように京都へ流れてきて油屋を営んでいる八っあんが、音羽の滝の前にある水茶屋で弁当を食べ終えて一服しているところへ、この茶金が現れて茶を飲んだ。茶金はその汚らしい清水焼の数茶碗を取り上げて、「はてな」と首をかしげた。しかも、六回も。それを見ていた油屋は、嫌がる水茶屋のオヤジとすったもんだの末に10両でその茶碗を手に入れた。
一週間後、油屋はその茶碗を茶金の店に持ち込み、300両で買ってくれと言う。最初に応対した番頭は茶碗を見るなり「清水焼の茶碗はサラで6文、フルなら1文の値打ちもない」と冷たい返事。油屋は怒って番頭を殴りつけてしまう。騒動を聞いて店の奥から茶金が現れる。油屋は茶金に、この茶碗に見覚えはないか、と詰め寄る。茶金は茶碗のことを思い出し、「あれはぽたりぽたりと漏るのや」というのである。つまり、値打ち物どころか、安物のしかも不良品なのである。油屋が自分が使った茶碗をわざわざ持ち込んできたことに感じるものがあった茶金は、油屋が有り金はたいてその茶碗を手に入れたというので、茶碗をかたに油屋に10両貸し与えて、その場は一件落着。
数日後、茶金は近衛殿下の茶会に招かれる。そこでの雑談のなかで、「先日、こんな粗忽者がおりまして、」とその茶碗の話を語った。すると、殿下はそれが見たいと言い出し、茶金は早速持参する。殿下も茶碗が漏るのを不思議がり、色紙にその茶碗にまつわる歌をしたためる。茶金はその歌を喜び、茶碗と色紙を一緒にして仕舞っておく。
さらに数日後、近衛殿下がかしこき方にお目通りをした折に、この茶碗の話をする。すると、「その茶碗、朕が見たいぞ」とのたまう。すぐに茶金にその話が伝わり、茶金は立派な糸柾の箱を拵え、警護の役人が付いて、茶碗をご覧に入れることになった。やはり面白がって、このかしこきお方が短冊に歌を書き、箱にも一筆書き付けた。
茶碗はたちまち京の噂となり、欲しがる人が引きもきらない。最初は手元において置こうとした茶金だったが、1,000両の値が付いたときに手放してしまった。茶碗は水茶屋にあったときから全く変わらぬ清水焼の数茶碗だが、それに高貴なお方の御色紙、短冊、箱書きが付き、すっかり有名になってまった。茶碗そのものは数茶碗、つまり雑器だが、そこに様々なエピソードが付随することで、唯一無二の価値を持つに至るということだ。
今日、出光美術館の特別講座を聴講したのだが、そのテーマが「福建省の陶磁器と陶磁貿易」だった。主に16世紀から17世紀頃、中国から日本へ運ばれてきた陶磁器のことが語られた。最近になって当時の沈没船が発掘され、日中韓の陶磁貿易の一端がさらに明らかになったとのことだったが、その沈没船の話のなかで興味を覚えたのは、日本向けの荷のなかに、明らかに使用済みの器類があったということだ。
当時、中国といえば陶磁器生産の世界的な最先端地域であり、陶磁器は中国の主要輸出品でもあった。その中国から日本へ輸出された品物には、もちろん新品も多数あるのだが、中古品ばかりを集めて詰めた箱が、沈没船のなかから発見されたというのである。これは、当時の日本にそうした需要があるということを示すばかりではなく、今とは比較にならないほど危険の大きかった海上交通を利用してまで輸入するということは、それ相応の相場があったということでもある。雑器をそのものとしてではなく、威信財や茶道具として使うという、趣味というか美意識というか、ものの在り様に対する認識のスタイルのようなものがおもしろい。
今でこそ、茶道具というのは奢侈品になってしまったが、もともと茶道は禅宗を体現したものであり、その基本的な精神は、無いことを活かし有り合わせを活かすことだ。そこから「見立て」というものも生まれる。しかし、16-17世紀の沈没船から日本向けの中古茶碗類が大量に見つかるということは、既に当時において「見立て」が暴走して無の思想が形骸化していたということだろう。尤も、雑器を名物にするということは、無から価値を創り出すということでもある。
創造の過程に関心が向かわずに、市場価値という表層しか眼に入らない人が多いから、贋作にまつわる悲喜こもごもの話題が絶えない。それもまた人間というものの何事かを語るエピソードだ。表層しか見ない、見ようとしない、ということが悪いことだと言うのではない。むしろそうすることによって、我々は世間と円滑に折り合いをつけることができる。敢えて表層しか見ない、というのも生きる上での知恵だろう。しかし、表層であることがわかっていて、そこしか見ないというのと、表層が世界のすべてだと信じるのとでは、生きている心地がずいぶん違うのではないだろうか。
注:「茶金」についての記述は「五代目古今亭志ん生 名演集」(コロンビアミュージックエンタテインメント)のなかにある、NHKラジオで1956年1月27日に放送されたものに拠る。