個展の案内状のデザインが出来上がって、印刷に入稿したので、デザイン事務所に預けておいた作品サンプルの回収に恵比寿へ出かけた。
恵比寿の山手線ホームにはホームドアが設置されている。まさか山手線がワンマン運転になるとは思えないが、東京メトロ丸の内線のような比較的混雑する線でもワンマン化されているので、ひょっとしたらそうなるのかもしれない。
自分が高校生の頃は、京浜東北線、赤羽線(現 埼京線)、山手線を乗り継いで通学していたのだが、当時の国鉄首都圏管内でラッシュ時の混雑が最も激しかったのが赤羽線だった。その赤羽線が山手線と接続する池袋駅は、ホームへの入場規制が行われるのが当たり前で、乗り換えるのにけっこう時間がかかった記憶がある。
今は、その当時に比べると格段に輸送力が増強されている上に、人口は殆ど変わっていないので、混雑の度合いは、私の眼には羨ましいような平穏なレベルに見える。しかも、当時の赤羽線は冷房がついていなかったので、エアコンが全車両に装備されている現在の状況は、当時から見れば夢のようだ。
混雑は緩和方向に向かっているにもかかわらず、ホームでの事故は増えているらしい。今日、国土交通省鉄道局から「「首都圏ホーム事故対策会議」の結果について」と題されたプレスリリースが出されている。鉄道での人身障害事故のデータが示されているのだが、それによると、一都三県のホームでの事故件数は2002年の54件に対し2009年は141件、2010年は上半期の数値を倍にして年率換算すると154件だ。全国で見ると2002年は113件、2009年は193件、2010年の年率換算値は234件。首都圏の占める割合は2002年の47.8%から2010年は65.8%へ増加している。ホームでの事故のうち、酔客によるものを取り出すと、首都圏では2002年の32件から2010年年率換算の102件へ、事故全体の増加を上回るペースで増えている。これも全国では2002年が53件で2010年は136件なので、首都圏の割合は60.4%から75.0%へ増えている。
事故発生の時間帯は2002年から2010年までの合計によるものだが、21時から0時に集中している。朝から酒を飲んで電車に乗ったりはしないだろうから、これは素直に了解できるデータだ。
以前にこのブログで何度か女性の酔客が目立つというようなことを書いた記憶があるが、それは私の印象でしかないことが今回発表されたデータで明らかになった。プレスリリースには全国のデータしか掲載されていないのだが、酔客に係るホームでの人身障害事故の88%が男性だ。さらに細かくみていくと、一番多いのは50代男性24%、次が60代男性と30代男性がともに18%、以下、20代男性14%、40代男性12%と続く。
このデータを見て思うのは、酔って醜態を晒す世代構成が、なんとなく社会のありようを現しているのではないかということだ。製造業は国内の生産拠点を撤収して海外に展開し、そうした国内の地方での雇用が減少して大都市圏にある本社で余剰人員を抱えることになる。それに伴って、地方での雇用機会はますます減少するので、結果として東京への一極集中が止まらないということになる。そうしたなかで余剰の本流は50代、60代だろう。おそらく、世代全体の傾向として、50-60代は職場でも家庭でも居場所の無い世代だろう。人生の崖っぷちを歩いているようなもので、安い酒に酔っていないとやってられない、というようなことだろうか。30代や20代は社会に出てから景気の良い時代を経験していない世代だ。閉塞感のなかを生き続けているようなもので、気の毒だが希望が無い世代といえる。40代が比較的少ないのは、現実に追われて酒に酔っている余裕すらないということではないだろうか。
酔客の事故が増えているという統計を見て、妙なことだと思うのは、酒類の消費量は減っているという事実だ。念のためキリンホールディングスがまとめたデータ集を見たが、2005年から2009年に至る5年間、酒類全体としては消費量が落ちている。ただ、個々にみれば「新ジャンル」と呼ばれるビールもどきの酒は増えている。焼酎、ワイン、チューハイは総じて横ばい、ウィスキーは減少が続いていたが、2009年は対前年で増加に転じている。つまり、酔客事故の推移とトレンドが一致するのは新ジャンルの消費量だ。
いい歳をしたオッサンが、安酒に溺れて、帰宅途上の鉄道のホームで迷惑を撒き散らす、という解釈になるだろうか。酔っている間だけ現実を忘れても、現実が無くなるわけではない。50年も60年も生きていれば、そんなことは承知しているだろうが、それでも酔いたいほど過酷な現実を生きている人が増えているということだろうか。それとも、単に不甲斐無い奴が増えただけなのだろうか。
ホームドアを設置してある駅はずいぶん多くなった。安全対策と言えば聞えは良いが、要するに、自己責任で行動できる奴が少なくなったということなのではないか。恐ろしい世の中になったものだ。
恵比寿の山手線ホームにはホームドアが設置されている。まさか山手線がワンマン運転になるとは思えないが、東京メトロ丸の内線のような比較的混雑する線でもワンマン化されているので、ひょっとしたらそうなるのかもしれない。
自分が高校生の頃は、京浜東北線、赤羽線(現 埼京線)、山手線を乗り継いで通学していたのだが、当時の国鉄首都圏管内でラッシュ時の混雑が最も激しかったのが赤羽線だった。その赤羽線が山手線と接続する池袋駅は、ホームへの入場規制が行われるのが当たり前で、乗り換えるのにけっこう時間がかかった記憶がある。
今は、その当時に比べると格段に輸送力が増強されている上に、人口は殆ど変わっていないので、混雑の度合いは、私の眼には羨ましいような平穏なレベルに見える。しかも、当時の赤羽線は冷房がついていなかったので、エアコンが全車両に装備されている現在の状況は、当時から見れば夢のようだ。
混雑は緩和方向に向かっているにもかかわらず、ホームでの事故は増えているらしい。今日、国土交通省鉄道局から「「首都圏ホーム事故対策会議」の結果について」と題されたプレスリリースが出されている。鉄道での人身障害事故のデータが示されているのだが、それによると、一都三県のホームでの事故件数は2002年の54件に対し2009年は141件、2010年は上半期の数値を倍にして年率換算すると154件だ。全国で見ると2002年は113件、2009年は193件、2010年の年率換算値は234件。首都圏の占める割合は2002年の47.8%から2010年は65.8%へ増加している。ホームでの事故のうち、酔客によるものを取り出すと、首都圏では2002年の32件から2010年年率換算の102件へ、事故全体の増加を上回るペースで増えている。これも全国では2002年が53件で2010年は136件なので、首都圏の割合は60.4%から75.0%へ増えている。
事故発生の時間帯は2002年から2010年までの合計によるものだが、21時から0時に集中している。朝から酒を飲んで電車に乗ったりはしないだろうから、これは素直に了解できるデータだ。
以前にこのブログで何度か女性の酔客が目立つというようなことを書いた記憶があるが、それは私の印象でしかないことが今回発表されたデータで明らかになった。プレスリリースには全国のデータしか掲載されていないのだが、酔客に係るホームでの人身障害事故の88%が男性だ。さらに細かくみていくと、一番多いのは50代男性24%、次が60代男性と30代男性がともに18%、以下、20代男性14%、40代男性12%と続く。
このデータを見て思うのは、酔って醜態を晒す世代構成が、なんとなく社会のありようを現しているのではないかということだ。製造業は国内の生産拠点を撤収して海外に展開し、そうした国内の地方での雇用が減少して大都市圏にある本社で余剰人員を抱えることになる。それに伴って、地方での雇用機会はますます減少するので、結果として東京への一極集中が止まらないということになる。そうしたなかで余剰の本流は50代、60代だろう。おそらく、世代全体の傾向として、50-60代は職場でも家庭でも居場所の無い世代だろう。人生の崖っぷちを歩いているようなもので、安い酒に酔っていないとやってられない、というようなことだろうか。30代や20代は社会に出てから景気の良い時代を経験していない世代だ。閉塞感のなかを生き続けているようなもので、気の毒だが希望が無い世代といえる。40代が比較的少ないのは、現実に追われて酒に酔っている余裕すらないということではないだろうか。
酔客の事故が増えているという統計を見て、妙なことだと思うのは、酒類の消費量は減っているという事実だ。念のためキリンホールディングスがまとめたデータ集を見たが、2005年から2009年に至る5年間、酒類全体としては消費量が落ちている。ただ、個々にみれば「新ジャンル」と呼ばれるビールもどきの酒は増えている。焼酎、ワイン、チューハイは総じて横ばい、ウィスキーは減少が続いていたが、2009年は対前年で増加に転じている。つまり、酔客事故の推移とトレンドが一致するのは新ジャンルの消費量だ。
いい歳をしたオッサンが、安酒に溺れて、帰宅途上の鉄道のホームで迷惑を撒き散らす、という解釈になるだろうか。酔っている間だけ現実を忘れても、現実が無くなるわけではない。50年も60年も生きていれば、そんなことは承知しているだろうが、それでも酔いたいほど過酷な現実を生きている人が増えているということだろうか。それとも、単に不甲斐無い奴が増えただけなのだろうか。
ホームドアを設置してある駅はずいぶん多くなった。安全対策と言えば聞えは良いが、要するに、自己責任で行動できる奴が少なくなったということなのではないか。恐ろしい世の中になったものだ。