熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ハーブとドロシー(原題:HERB & DOROTHY)」

2010年12月10日 | Weblog
いいご夫婦だなと思う。それぞれに自分というものがしっかりとあった上で、むしろあるからこそ、しっかりと寄り添って生きているという印象を受けた。家庭とか家族というのは、ともすれば、だらしなく依存し合う関係に陥りがちだが、このご夫妻がそれぞれに矜持を守りつつ仲睦まじく今日に至るのは、価値観というより、その根底にある共通感覚を共有しているということなのだろうか。

「アート・コレクター」という看板に眼を奪われがちになるが、「アート」というのは特別なものではなく、彼等の共通感覚の表現なのだと思う。勿論、「表現」というのは単なる言語ではなく、その背後にあるものを含めてのことである。そして「言語」とは単なる言葉ではなく、具象化一般を指している。このご夫妻にとっては、たまたまコンテンポラリー・アートが共通感覚の「表現」ツールであったというだけで、それは音楽であっても、観劇であっても、何でもよいのだろう。事実として、ドロシーはハーブと付き合うようになる前はアートのことには特に強い興味は無かったという。ハーブと付き合い、デートで美術館を訪れるようになってから、ハーブに「追いつこう」と美術のことを勉強し始めたのだそうだ。「アート」が先にありき、というのではなく、ふたりの関係が基本にあり、その表現や展開の触媒としてそれがあったということなのである。

このご夫婦の場合は、たまたま「アート」が表現手段なのだが、自分を表現するということについて強い執着のようなものがないと、そうした感情も情熱も才能も個人の内部から発せられることなく終わってしまう。彼等は夫婦という関係がさらに発展して「コレクター」として確たる地位を築いたが、そうした社会からの認知を受けるには、当然ながら他者との関わりが不可欠になる。

彼等は作品の向こう側にある作り手の発想や意識へまで興味の対象が向かうあまりに、作者へ会いに行くという行動に出ている。そうした「人と会う」という行動が、彼等自身の見識や思考を深めることは勿論のこと、作品を巡る関係性を拡張することになり、それらが新たな関係性をもたらすことにもなる。彼等のコレクターとしてのプレゼンスが大きくなったのは、結局はその「作者に会ってみる」というシンプルなところに根ざしているように思う。つまり、何事かを成そうと思ったら、人に会って話をしてみる、ということが基本なのではないかと思うのである。

そして、社会との関係ということに関しての極めつけは、作品を買うという行為だ。市場社会において利害を共にするということの表現は金銭の移動以外には無いのである。「利害」とか「金銭」というと、欲得の話に捉えられてしまうかもしれないが、あくまでも「表現」手段としての金銭移動なのである。本来的に貨幣は市場活動のツールであったはずなのに、その利便性が高いあまりに、その増殖が自己目的と化したところに社会の歪みが生じるのだと思う。ご夫妻は、購入した作品をひとつも売却していない。結婚以来、70平方メートルのアパートでつつましい生活を続けておられる。自己表現と作家とのコミュニケーションのための手段という本来的な使い方として金銭を使うことに徹しているということは、この作品で注目すべきことのひとつだろう。冒頭で「矜持」という言葉を使ったが、人としての自負、生きる主体としての自覚がしっかりとあるからこそ、それこそ「アート」そのもののような生活を送っておられるのだと思う。