エライ人の「回顧録」というと、歴史的な資料としての価値があるようなものをイメージする。尤も何の「資料」かというところまでのイメージは湧かないのだが。今日、海部俊樹の回顧録「政治とカネ」を読んだ。政治というものの定義や範囲の置き方次第だとは思うが、個別具体的な政治家についての人物評があり、それが故人に対するものならまだしも、現役の国会議員に対するものもあって、そこに著者の言語外の意志表示のようなものを感じ取ることもできるような気がする。
政治がカネで動くのは、その国の国民がカネでうごくということでもある。どの国も似たような状況だというのなら、人間というものがそういうものだということだ。政治家という人間と、国民という人間が別個のものであるはずはない。「金権政治」が糾弾されるのは、第一義的には様々な違法行為に拠るのだろうが、根本的な糾弾の動機は単なる嫉妬心にあるのではないだろうか。
ところで、これを読んで初めて現金の大きさというものを知った。「大きさ」というのは文字通り度量衡的な意味での大きさである。たとえば、このようなことだ。
「デパートの紙袋であれば、一袋に入るのは、せいぜい二億円まで」
「金は、三百万円積んではじめて「立つ」」
なぜ現金が行き交うかと言えば、口座振込と違って記録が残らないからだ。そして、有価証券や貴金属と違って、減価するリスクが小さい。今でこそ金相場は史上最高値圏だが、少し過去に遡れば、何年も相場が低迷を続けた時代もあった。上がることもあれば下がることもあるのが相場というものだ。
政治に限らず、物事がカネで動くのは市場経済の基本原理だ。それが良いの悪いのといったところで、そう評している人自身もその社会のなかで生活を送っているのだから、まさに戯言だ。カネは、カネのまま持っていたのでは減りもしないし増えもしない。カネを増やすには、増えるように使うしかない。それが投資と呼ばれたりもするが、肝心なのは「増えるように使う」ことだ。ここに難しさがある。しかし、使わないことには増える可能性はないのである。
政治は国民生活を豊かにすることが目的のひとつであるはずだ。ところが昨今の政治はカネを使わせないようにしているかのように見える。例えばサラ金に対する規制にしても、負債を抱えて生活を破綻させるのは、そもそも借りる側の責任であって、貸付金利が高いというのは副次的な要素でしかない。中小零細企業の経営者などにとっては無担保で当座の資金を調達する手段として、消費者金融を利用することは選択肢のひとつであったはずだ。それに代わる流動性の供給源を用意することなく、闇雲に資金の流れを遮断すれば、経済活動のなかに壊死してしまう部分が出てくるのは当然のことだろう。確かに、その壊死が反社会勢力の活動を抑制することにつながる側面はあるだろう。しかし、その代償として、経済活動の裾野を支えている中小零細企業や新興企業の活動までをも制限することになってしまったら、そのことのほうが国民経済にとっては悪影響が大きいのではないだろうか。
世に本来的な正義というものは無いと思っている。物事は便宜的に事後的に白黒つけるものであって、はじめから白かったり黒かったりするものなど無い。私自身が裁判を経験して実感したのは、「当たり前」のことが「当たり前」であることを論理立てて証明することは至難であるということだ。行政や司法の用語が日常会話の用語と違ってわかりにくいのは、正確さや厳密さというものを追求した結果だろう。人によって「当たり前」とか「常識」の中身が微妙に違っているにもかかわらず、日常生活に支障が生じないのは、生活というものの大きな部分が厳密さを要求しないからだ。
ほんとうに豊かな社会というのは透明性だの公平公正によって担保されるものではない。清濁合わせて、なんとなく明るい、というのが理想なのではないだろうか。その微妙な匙加減を計るのが政治というものだろう。50年近く政治家をやり、首相まで務めた人が、回顧録に「わかりやすく、きれいな政治」が己の基本姿勢だと主張し、一方で政治にカネは必要悪でもあると語る。そして自分の「政治人生に悔いはなし」と断言する。こうした支離滅裂さこそがあるべき政治家の姿だろう。だからこそ、この人は政治家でいられたのである。
政治がカネで動くのは、その国の国民がカネでうごくということでもある。どの国も似たような状況だというのなら、人間というものがそういうものだということだ。政治家という人間と、国民という人間が別個のものであるはずはない。「金権政治」が糾弾されるのは、第一義的には様々な違法行為に拠るのだろうが、根本的な糾弾の動機は単なる嫉妬心にあるのではないだろうか。
ところで、これを読んで初めて現金の大きさというものを知った。「大きさ」というのは文字通り度量衡的な意味での大きさである。たとえば、このようなことだ。
「デパートの紙袋であれば、一袋に入るのは、せいぜい二億円まで」
「金は、三百万円積んではじめて「立つ」」
なぜ現金が行き交うかと言えば、口座振込と違って記録が残らないからだ。そして、有価証券や貴金属と違って、減価するリスクが小さい。今でこそ金相場は史上最高値圏だが、少し過去に遡れば、何年も相場が低迷を続けた時代もあった。上がることもあれば下がることもあるのが相場というものだ。
政治に限らず、物事がカネで動くのは市場経済の基本原理だ。それが良いの悪いのといったところで、そう評している人自身もその社会のなかで生活を送っているのだから、まさに戯言だ。カネは、カネのまま持っていたのでは減りもしないし増えもしない。カネを増やすには、増えるように使うしかない。それが投資と呼ばれたりもするが、肝心なのは「増えるように使う」ことだ。ここに難しさがある。しかし、使わないことには増える可能性はないのである。
政治は国民生活を豊かにすることが目的のひとつであるはずだ。ところが昨今の政治はカネを使わせないようにしているかのように見える。例えばサラ金に対する規制にしても、負債を抱えて生活を破綻させるのは、そもそも借りる側の責任であって、貸付金利が高いというのは副次的な要素でしかない。中小零細企業の経営者などにとっては無担保で当座の資金を調達する手段として、消費者金融を利用することは選択肢のひとつであったはずだ。それに代わる流動性の供給源を用意することなく、闇雲に資金の流れを遮断すれば、経済活動のなかに壊死してしまう部分が出てくるのは当然のことだろう。確かに、その壊死が反社会勢力の活動を抑制することにつながる側面はあるだろう。しかし、その代償として、経済活動の裾野を支えている中小零細企業や新興企業の活動までをも制限することになってしまったら、そのことのほうが国民経済にとっては悪影響が大きいのではないだろうか。
世に本来的な正義というものは無いと思っている。物事は便宜的に事後的に白黒つけるものであって、はじめから白かったり黒かったりするものなど無い。私自身が裁判を経験して実感したのは、「当たり前」のことが「当たり前」であることを論理立てて証明することは至難であるということだ。行政や司法の用語が日常会話の用語と違ってわかりにくいのは、正確さや厳密さというものを追求した結果だろう。人によって「当たり前」とか「常識」の中身が微妙に違っているにもかかわらず、日常生活に支障が生じないのは、生活というものの大きな部分が厳密さを要求しないからだ。
ほんとうに豊かな社会というのは透明性だの公平公正によって担保されるものではない。清濁合わせて、なんとなく明るい、というのが理想なのではないだろうか。その微妙な匙加減を計るのが政治というものだろう。50年近く政治家をやり、首相まで務めた人が、回顧録に「わかりやすく、きれいな政治」が己の基本姿勢だと主張し、一方で政治にカネは必要悪でもあると語る。そして自分の「政治人生に悔いはなし」と断言する。こうした支離滅裂さこそがあるべき政治家の姿だろう。だからこそ、この人は政治家でいられたのである。