熊本熊的日常

日常生活についての雑記

三ツ矢サイダー

2010年12月29日 | Weblog
勤め先の勤務時間が午後5時からなので、平日の夕食は職場がある近辺の店で弁当などを調達している。オフィス街なので、持ち帰りができる食に関しては選択肢が限られており、どの店の惣菜や弁当もほぼ食べ尽した感がある。飲料も同様で、コンビニに並ぶペットや紙パックの飲料はほぼ全て口にした。好きで口にするものというのは無い。コーヒー飲料にしても茶系飲料にしても乳製品にしても、大量生産されるものに使われる原料の姿を想像すると、素朴な疑問が次々に湧いてきて食欲が失せてしまうのである。普段は炭酸飲料は飲まないのだが、今日に限って、飲料の棚の前に立ち尽くしていたら、三ツ矢サイダーのボトルに書いてあった「飲まれつづけて127年」という文言が目に入った。それでなんとなく普段は口にしない三ツ矢サイダーを飲んでみた。

味についてどうこう語ることもないのだが、その127年前のことが気になって、ネットで検索してみた。驚いたことに、その起源は皇室で消費する炭酸水だった。宮内省が兵庫県の平野鉱泉を用いて炭酸水を生産する御料工場だ。それが三菱に払い下げられ、明治屋が権利を得て1884年に「三ツ矢平野水」として販売したのが市販の始まりだそうだ。市販開始後の1897年に改めて皇太子時代の大正天皇の御料品に採用されたとある。

近頃は「皇室御用達」などと冠したもので旨いものは無いような印象が強く、時々そのようなものを街で見かけると思わず「目黒のさんま」という噺を思い浮かべてしまう。それはさておき、三ツ矢サイダーに限らず、もともとはやんごとなき人々のためのものが、時代と共に大衆化するというのはよくあることだ。

今の時代、やんごとなき人だけしか消費できないようなものというのは、どのようなものがあるのだろうか。おそらく、そんなものは無いのではないか。金額が高くて庶民には手が出ない、というようなことではない。庶民でも金を払えば手に入るものばかりなのではないだろうか。そういう状況こそが、市場原理の帰結だろう。経済力の下で人々が平等、つまり、市場原理と民主制は一体のものだ。金さえ払えば、我々は何でもできる。これは果たして幸福なことなのだろうか。幸福とはあまり関係のないことなのだろうか。

ところで、幸福とは何だろうか。世が世なら皇族しか飲むことのできなかったサイダーを飲むことのできる幸せ、というようなことはあるまい。