栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

京都旅行雑感~北野天満宮で不思議を感じる。

2016-12-19 17:09:30 | 視点
 祝日と週末を利用して11月初旬に京都2泊3日の旅行をしてきた。
京都の紅葉を撮りに行きたかったが、時期がまだ少し早いので紅葉は目的から外した。
 では、どこを回るか。何分京都は広いし、観るところは多い。
いくら目的がないとはいえ、ある程度行き先を絞らなければムダな動きが多くなる。
だが、スケジュールに縛られて動くのは嫌いな性分、というか苦手である。
計画性がない上に時間感覚もないから元来、団体行動には向いていない。
ツアーで歩いていても目に留まるものがあれば、そちらに逸れてしまう。
だから同行者がいないとはぐれてしまう。
 数年前、弟と一緒に東北旅行に行った時も弟がいつも近くで私の行動を見てくれていた。
それでも写真に夢中になり、何度か集合場所まで走ったことがある。

 さて、キーワードから紅葉を外すと、どこを観てもいいことになるが、やはり京都らしさを撮りたい。
では、京都らしさとは何かとなると思い付くのは祇園と哲学の道。
西田幾多郎哲学とは関係なかったとはいえ、学生時代に哲学を専攻した身としては
先人に習って思索に耽りながら散策してみたいと思っていたが、その密かな楽しみは
自分一人だけのものにしたいので今回は諦めた。

 結局、スケジュールづくりはパートナー任せにしたが、そういえば太秦の映画村には一度も行ったことがないと思いだし、そこには行くことにした。
後はお決まりの寺巡りとなった。

北野天満宮で不思議に思う

 「よくそこに気付かれましたね」
北野天満宮で神職にあることを尋ねると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの顔でそう言われた。
「気付かれるのは10万人に1人ぐらいです」と大袈裟に世辞を言われたが、誰でも普通に気付くはずで、
ただそんなことをわざわざ尋ねに来る変わり者は数少なかったのだろう。

 何のことかと言えば、同宮の参道である。
鳥居をくぐって真っ直ぐ進んでいくと天満宮の本殿ではなく横手に出るのだ。
あれ、なんで、と思いながら、左に折れて本殿に向かった。

 参拝後、今度は真っ直ぐ参道を歩いて出口に向かうと途中で参道が斜め左に折れているではないか。
やっぱりおかしい。
神様の通り道が曲がることはあり得ないはず。
第一どこでも参道を真っ直ぐ歩いて行けば必ず本殿の前に来る。
それなのになぜ北野天満宮だけ参道が曲がっているのだろう。
祭神は菅原道真公である。曲がったことが大嫌いなはず。
それなのになぜ、とまたもや疑問が湧く。



 疑問を感じると確かめずにおられない。
「おかしい。ちょっと聞いてくる」と言い、神職を探して感じた疑問をぶつけたところ先のように言われた。
「北野天満宮の七不思議の一つと言われています」
 実は、と言いながら説明されたところによると、元々この地は地主神社が祭られていた場所で、
いかなる謂われか分からぬが地主神社から譲り受け、道真公を祭る天満宮とした。
その際、地主神社の正面を避けて天満宮を建てたから参道が曲がっているとのこと。

 説明を聞き、もう一度参道をまっすぐ行ってみると、たしかにそこには地主神社があった。
小さな祠ではあったが。
 こういう例がまったくないわけではない。
ただ、その場合はもともとあった祭神がその場所(正面)を新しい神に譲り、自らは脇に追いやられているか、足跡だけ記され祠もないことの方が多い。

 祭神として祭られているが元を正せば神はすべからず人である。
つまり神の歴史(神話)は先住民と、その地に新たに来た民族の歴史であるから、
祭られるのは勝利者だが、戦わずして降伏、あるいは和睦した民族の話は国譲り伝説として語り継がれている。
 道真公の場合はさすがに相手を追いやることなく(自らが無実の罪で西国に追いやられた身だから)、場所譲りを受け、その代わりに自らは正面を避けて脇に寄ったということだろう。



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