栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

TVドラマ雑感

2018-02-15 18:35:53 | 視点
 休日はビデオ三昧、というほどではないが、食事をしながら録画済みのビデオを観ていることが多い。今年は年初から「陸王」を観ていた。
 基本的に連続物は自分では録画も、観ることもほとんどないが、貧乏性だから録画されていると観ないで消去することができない。取り敢えず観る、というか消すために観るわけだ。
 そんな形で年末から見始めたのが「陸王」。内容は説明するまでもないだろう。池井戸潤原作のTVドラマで、高視聴率だったようだが、池井戸作品で観たのは「下町ロケット」だけ。その前の「半沢直樹」はシリーズ何回目かの1回分を観ただけで嫌気がさし、以後は観ていないし、観たいとも思わなかった。はっきり言うと「半沢直樹」はTVドラマも主演俳優も嫌いだ。

 「半沢直樹」が嫌いなのは、流行語にもなったらしい「倍返し」というあの台詞。このドラマとは関係ないが「保育園落ちた。日本死ね!」というあれも大嫌いだ。あれを国会で取り上げて一躍人気者になった元検事の議員にも好感を持てなかった。すると案の定と言っていいのかどうか、その後、全く別のプライベート(と言っていいかどうか)な件でメディアに連日取り上げられた。なんともはや、という感じだ。

 近年どうも感覚がおかしい、メディアも人も。「倍返し」というのは「目には目を、歯には歯を」ではない。目をやられたら「目と歯を」やり返せということで、ハムラビ法典にさえ背いている。もちろん「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と諭したキリストの教えにも。
 つまり「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を」受けさせることで、それ以上、連鎖の拡大を防ぐのではなく、やられたら相手に倍の損害を与えろというのが「倍返し」という言葉で表現されているわけだ。
 ドラマとはいえ、少なくともメディアがそういう言葉を流行らせるのはおかしい。意図するとしないにかかわらず、結果としてそういうことを煽っているわけだから。

 「日本死ね!」も同じだ。以前にも書いたが、言葉は思考であり、思想である。人は言葉でものを考えるのだ。「保育園落ちた。日本死ね!」という言葉は、あまりにも短絡的な言葉(思考)だ。
 私はこの言葉に非常に危険なものを感じた。背景にあるのは「好景気」という言葉を実感できない庶民の悶々とした気持ち、なぜだか分からず、湧き上がってくる怒りと、持って行きようがない感情に押し潰されている日常・・・。
 実は今こうした感情は日本だけでなく世界中が抱えている。

 さて、ビデオで観たドラマ「陸王」だが、「面白かった」。大体、開発物語にはドラマがあるし、取材していても面白い。それを脚色してドラマ仕立てにするのだから面白いに決まっている。これで面白くなければ、よほどドラマづくりが下手ということだ。
 「下町ロケット」の帝国重工、財前部長のいつもスーツ姿は「ありえないだろう」と思わず突っ込みを入れたくなったが、それもドラマだと思ってしまえば愛嬌。テレビ朝日の「科捜研の女」が現場で鑑識や刑事まがいの行為をするのに比べればはるかにマシというものだ。

 「陸王」は観終わった後、「ああ、面白かった」だけで終わり。期待を裏切る箇所はゼロで、水戸黄門の現代版を見(観ではなく)ている感覚。娯楽番組なんだからそれでいいではないか、と言われればその通りだ。ドラマではなくエンターテインメント番組として見ていればね。
 今、この手のドラマは視聴率がいいようだ。「ドクターX」しかり。皆、ストレスが溜まっているんでだろう。現実世界の中で鬱々としているから、なまじ考えさせられるようなドラマではなく、非現実的だが完全フィクションではなく、その中に一部事実、例えば最先端医療技術や中小企業が開発した新技術を取り入れて紹介することでフィクションと現実の境を低く(融合)し、視聴者に「あり得るかも」「あったらいいな」という感覚に酔わせるドラマが支持されるのだろう。

 この数年、私の頭は「社会は、時代はどこへ向かっているのか」「文明は崩壊に向かっているのではないか」という思考に捕らわれている。さて、今年はどんな年になるのやら。




ココチモ