栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

広場と通りの関係 ~ 住宅に見るセキュリティーとコミニュケーション(2)

2018-02-21 12:17:11 | 視点
欧米の「広場」と日本の「通り」

 この閉じた住宅と、オープンテラスを備えた住宅は西洋の「広場」と、
日本や一部のアジアに見られる「通り」の違いであり、内と外、
セキュリティーとコミュニティー(=コミュニケーション)に対する
考え方の違いを表しており面白い。

 西洋の住宅は内と外の境界に塀や囲いを作り、両者をはっきり分けているのに対して、
日本の住宅は内と外の境界が曖昧である、あるいは曖昧なままにしているといえる。

 では、曖昧な部分には何があるのか。「通り」である。
今と違いかつての町には「通り」が存在した。
ところが西洋の街づくりを真似、交通重視でつくられた現代の街(町)は
人々の暮らしから「通り」を奪い、代わりに広場という名の空間をつくってきた。

 西洋における「広場」は人が集まりコミュニケーションをする場、
コミュニティーの重要な一要素だったが、形を真似ただけの広場は
コミュニケーションがすっぽりと抜け落ちた単なる「広い場」でしかなくなっている。

 こうした広場(広い場)があちこちに作られていったが、
それは大小の公園があちこちに作られたのとよく似ている。
砂場と滑り台とブランコを備えていることが公園の条件だったのはそれほど前のことではない。

 公園といえばどんなに小さな公園(空き地程度の)にでも名前が付いているのは驚く。
日本人の生真面目さというか役人の生真面目さというか。
 役人は必ず仕事の足跡を残すのだ。
それがどんなに小さな仕事でも。
いわんや政治家と会えば必ずメモを残す。
それを「ない」と言い張るものだから、ついに官僚側のリークに合い、
メモ、メール、文書の存在を次々と認めざるを得なくなったが、
文書を出してきたのが国会閉会直前というなんとも姑息な手を使ってきた。

「通り」に共通する日本の住宅

 まあ、それはさておき「通り」である。
日本の住宅は曖昧さがウリである。
西洋住宅のようにプライベート空間とそれ以外とが明確に分かれていない
(最近は西洋風にプライベート空間を設ける住宅が増えてはいるが)。

 この部屋は居間、寝室などと一応の用途は決っているが、
寝室でも布団を上げればそこが居間に早変わりするし、部屋の仕切りにしてからが襖や障子だ。
襖や障子は開き戸ではなく引き戸だから、襖を開ければ二間続きの部屋に早変わりし、
人数が増えても即座に対応できる広間になる。
このように便利でフレキシブルに対応できる仕切り(境界の拵え方)は西洋の住宅にはない。

 境界に対するこうした考え方は家の内と外でも見られる。
内と外の中間に存在しているのが「通り」である。
「通り」は人々が往来する道であるとともに、人が集(つど)い、
コミュニケーションを交わす「広場」的な役割も担っている。
西洋のように通り(ストリート)と広場を明確に分けるのではなく、
日本(と一部のアジア)の「通り」は通りであるとともに広場でもある。

 「通り」は家の内と外の境界(中間帯)であるとともに共有部分でもある。
例えば通りを挟んで向かい合う家が存在すると、通りは両家を分ける境界であるとともに、
どちらにも属さず、またどちらが利用してもいい共有・公有スペースでもある。

 西洋のコモンスペースがこれに近いが、完全なる公有ではなく
ムラに見られた入会地のような存在である。
コモンスペースは公有だが、入会地はそれとは少し違う、というか根本的な考え方が違う。

 入会地はムラ(コミュニティーの構成人員)の住民の共有地であり、
コミュニティーの構成人員は自由に出入りして、そこに生えている木や草、
茸などを自由に収穫することが許されている。
入会地の財産はムラの住民の共有財産なのだ。

 「通り」にはこのような側面もあり、通りを挟んだ家々は互いに「通り」を共有し、
夕食後はそこに縁台を出し、互いに涼んだり、時にはそこで将棋盤を指したりしながら
世間話に興じたりする。
そこは互いの内の延長でもあるわけだ。

 こうした「通り」が区画整理で、古い町名と一緒にどんどん消えていった。
それと並行して隣近所のコミュニケーションも。

 気が付いたら人は皆、家(内)、自分達だけの世界にとどまり、
外界との触れ合いをなくし、隣は何をするものぞ、我関せずと
自分の世界だけを守ろうと囲いを高く、厳重にし、これで防犯は万全と考えているが、
鍵をかけて締め出したのは泥棒だけだろうか。
高い塀で内側に閉じ込めたのがやさしい精神(こころ)、人を信じる精神(こころ)でなければいいが。









広場と通りの関係 ~ 住宅に見るセキュリティーとコミニュケーション(1)

2018-02-21 12:05:01 | 視点
 早朝、歩いているといろんなものに出合い、いろんなことを発見する。
都会の子は一様に疲れた顔をし、重いバッグを引きずるように歩いている。
あんなに重そうなバッグを肩から提げていれば学校に着いた時は疲れているだろうと、
つい同情さえしてしまう。
それに比べれば田舎の子はまだ元気だ。
朝出会えば「おはようございます」と挨拶をして通り過ぎる。
学校帰りには何と言うのだろうと思っていると「ただいま帰りました」と挨拶された。

幼稚園建設に反対する高齢者

 住宅地を歩くとほかにもいろんなものを見かける。
気になるのは空き屋の多さだ。
はっきり空き屋とは分からないまでもそれらしきものも含めると結構多い。
高齢で亡くなったのか、あるいは子供達と同居するようになったのだろうか。
そこそこの造りの家が空き屋というのはもったいない気もするが、まるっきり他人事とも
思えずなんとも複雑な気になる。

 その一方で新築住宅も増えている。
つい数か月前まで空き地か別の建物が建っていたはずだが、建物ができてしまうと
その場所の以前の姿がほとんど思い出せないから不思議だ。

 こうして街は姿を変えていくのかと思うが、新住民が増えると地域のコミュニティーが
崩れていくという声は全国で聞く。
最近では町内会にも入りたがらないそうだ。
たしかに町内の付き合いは煩わしい面もある。
できるだけ煩わしいことは避けたいと考えるのは人の常。
といっても山の中の一軒家ならいざ知らず、街(町)で暮らしていると
他人の世話にならないわけにはいかない。

 それでも干渉するのも干渉されるのも嫌だという人が増え、
ちょっとしたことで隣近所や行政に文句を言う。
 腑に落ちないのは保育園、幼稚園の建設に「子供の声がうるさい」からと
反対する人が増えていることだ。
それも高齢者が反対すると言う。

 それってちょっと違いはしないかと思うが、近頃は老いも若きも皆内向き。
自分のことしか考えないようだ。
なんとも住みにくい世の中になったものだ。

新築住宅の二極化

 こうした傾向は住宅にも現れている。
新築住宅(そのほとんどは新住民が造る住宅だが)を見ていると大きく
2つの傾向に分かれることに気づく。
 一つは塀や囲いを2、3mと高くして外から中を窺い知れないようにしている家で、
もう一つはオープンテラスを導入し内と外の境界をなくしている(より正確に言えば
内と外との間に駐車スペースや庭などの緩衝帯を設け、内と外の境界を低くしている)家で、
二極化する傾向にある。

 前者はセキュリティ重視、後者はコミュニケーションにウェイトを置いた造りといえ、
それぞれに建築者の思想が窺えると同時に、いまの社会情勢を反映しているようで興味深い。

 宅地面積が広い家、それは往々にして富裕層の家だが、それらに共通しているのは
まるでコンクリートの城壁で守られているような造りで、自他の境界を明確にし、
ここから内に一歩でも入るのは許さないと自己主張しているように感じられる。

 昨今は犯罪も多く、いつ、どこで、どんな犯罪に合わないとも限らない故、
防犯面から囲いを厳重にする気持ちは分からなくもない。
それにしても、まるで中世の城のように高い城壁で囲わなくてもと思ってしまう。

 囲いの中(塀の中ではない)には広い庭があり、そこで子供を遊ばせたり、
時には友達を呼んで茶会を開いたりすることもでき、囲いの中こそが社会だと
考えているのかもしれないが、閉め出されているのはよからぬ侵入者だけでなく
隣近所の地域住民まで拒絶されているような気がする。
                             (2)に続く



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