今朝のニュースで
座間事件の被害者9人全員の
身元が明らかになり、
心配していた
元クライエントの子でなく
別人だったので、
とりあえず安堵した。
でも、
同じ市内の女子高生が
殺人狂の毒牙にかかって
惨殺されたことには
胸が痛むばかりである。
容疑者の供述が
二転三転して警察が
動機を絞りきれない
と報道されているが、
あきらかにサイコパスであり
快楽殺人そのものとしか
言いようがなかろう。
人殺しが好きで、
死体損壊が好きで、
死体と同居していたい、
という性的倒錯で
知的にも低いと思われる。
自ら自殺する勇気がなくて
死刑にして殺してもらおう
という他害自傷型、
自暴自棄型の自爆テロでもある。
ラスベガス、テキサスと
銃乱射で数十人もの人々を殺害、
「やまゆり事件」では19人と
ここの処、大量殺人が続いている。
同じような事象が
時を隔て、処を隔てて
ある「場」に起こることがある、
というシェルドレイクの
「形態形成場理論」を
思い出してしまった。
それと、
人口増加により
生存環境が劣悪になってくると、
バイオ・フィードバックが働き
「種」自らが個体数を減損させて
調節しているのかもれしない。
昨日は、朝から
婆様を脳神経外科に
連れて行った。
覚悟はしていたが、
まるまる半日がかりで、
午後は疲労困憊となった。
老老介護の
身の辛さである。
西空に
クッキリと
虹が架かっていて、
気が重かったが
いくらか吉兆めいてるか、
と捉えることにした。
前線のような雲の上には
微かな月が浮いていた。
我れ
老母と共に
生かれて生くる在り、
という詩句が浮かんだ。
某先師は…
在るものみな美しく
起こる事みなよし
と詠まれた。
見事な全肯定である。
この句を3.11の時に、
どう受け止めるかで、
ずいぶんと頭を悩ました。
そして、
一つの帰結に達した。
「生死」をはじめ、
「左右」「NS」「+-」
あらゆる対局するものは
どちらかに価値が
有る無しのものではない
ということである。
神の視座からは
生も死も
等価なものなのである。
たとえ、
どんな生き方、
死に方をしようとも、
である。
曽野綾子さんは、
「偉大な創造主が創り給うた
生と死が偉大でないはずがない」
というようなことを
仰っていた。
3.11の渦中に、
なるほどなぁ・・・と、
感心した。
婆様の「プチ呂律」は、
MRI検査で
左脳の微小血管に
小さな梗塞が見つかった。
主治医からホーム経由で
6日に電話を頂いたのだが、
5日の面会では
呂律が廻らない
という感じがなかったので、
オフ日を待って
9日の検査となった。
脳外科医からは、
即日、治療を施さないと
梗塞部位はもう治せない
とのことだった。
幸い、微小血管による
「プチ呂律」のみで
体の麻痺や精神症状は
現れていないので、
今後も後遺症が出ないことを
祈るばかりである。
処方された薬は、
今後の血栓予防薬のようで、
血液をサラサラにする効果があるが、
去年は小脳出血しているので、
強い薬は使えないという。
人と会話することが
リハビリになると言われるので、
ホームでいつものように
ヘラヘラ喋っていてくれれば
いいのだが。
「呂律」は、
脳梗塞の早期発見・
早期治療、早期回復、
後遺症の回避のために、
見過ごせない症状であることを
今回認識した。
座間事件の被害者9人全員の
身元が明らかになり、
心配していた
元クライエントの子でなく
別人だったので、
とりあえず安堵した。
でも、
同じ市内の女子高生が
殺人狂の毒牙にかかって
惨殺されたことには
胸が痛むばかりである。
容疑者の供述が
二転三転して警察が
動機を絞りきれない
と報道されているが、
あきらかにサイコパスであり
快楽殺人そのものとしか
言いようがなかろう。
人殺しが好きで、
死体損壊が好きで、
死体と同居していたい、
という性的倒錯で
知的にも低いと思われる。
自ら自殺する勇気がなくて
死刑にして殺してもらおう
という他害自傷型、
自暴自棄型の自爆テロでもある。
ラスベガス、テキサスと
銃乱射で数十人もの人々を殺害、
「やまゆり事件」では19人と
ここの処、大量殺人が続いている。
同じような事象が
時を隔て、処を隔てて
ある「場」に起こることがある、
というシェルドレイクの
「形態形成場理論」を
思い出してしまった。
それと、
人口増加により
生存環境が劣悪になってくると、
バイオ・フィードバックが働き
「種」自らが個体数を減損させて
調節しているのかもれしない。
昨日は、朝から
婆様を脳神経外科に
連れて行った。
覚悟はしていたが、
まるまる半日がかりで、
午後は疲労困憊となった。
老老介護の
身の辛さである。
西空に
クッキリと
虹が架かっていて、
気が重かったが
いくらか吉兆めいてるか、
と捉えることにした。
前線のような雲の上には
微かな月が浮いていた。
我れ
老母と共に
生かれて生くる在り、
という詩句が浮かんだ。
某先師は…
在るものみな美しく
起こる事みなよし
と詠まれた。
見事な全肯定である。
この句を3.11の時に、
どう受け止めるかで、
ずいぶんと頭を悩ました。
そして、
一つの帰結に達した。
「生死」をはじめ、
「左右」「NS」「+-」
あらゆる対局するものは
どちらかに価値が
有る無しのものではない
ということである。
神の視座からは
生も死も
等価なものなのである。
たとえ、
どんな生き方、
死に方をしようとも、
である。
曽野綾子さんは、
「偉大な創造主が創り給うた
生と死が偉大でないはずがない」
というようなことを
仰っていた。
3.11の渦中に、
なるほどなぁ・・・と、
感心した。
婆様の「プチ呂律」は、
MRI検査で
左脳の微小血管に
小さな梗塞が見つかった。
主治医からホーム経由で
6日に電話を頂いたのだが、
5日の面会では
呂律が廻らない
という感じがなかったので、
オフ日を待って
9日の検査となった。
脳外科医からは、
即日、治療を施さないと
梗塞部位はもう治せない
とのことだった。
幸い、微小血管による
「プチ呂律」のみで
体の麻痺や精神症状は
現れていないので、
今後も後遺症が出ないことを
祈るばかりである。
処方された薬は、
今後の血栓予防薬のようで、
血液をサラサラにする効果があるが、
去年は小脳出血しているので、
強い薬は使えないという。
人と会話することが
リハビリになると言われるので、
ホームでいつものように
ヘラヘラ喋っていてくれれば
いいのだが。
「呂律」は、
脳梗塞の早期発見・
早期治療、早期回復、
後遺症の回避のために、
見過ごせない症状であることを
今回認識した。
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