遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   先日、「女のひとの声が低くなっている」と書きましたが。ネモさん(友人・経験ゆたかな現役教師)に会ったとき「子どもたちの声、低くなっていない?」と訊くと「なっている。声は低く、低体温で 響かなくなっている」という返事がかえってきました。響かない....ということばに、わたしも頷きました。おなじものがたりを語っても数年前とは手ごたえが違うような気がしていたからです。(低い声になっていると考えたのはわたしたちだけではないようです。参考

   「どうしてだと思う?」と問いますと「子どもたちは考えなくなったようだ」.....子どもたちは考えるより反応することが多くなった?....見る刺激、感じる刺激に即反応する....タメがない.....聴く力が弱くなっている.....雑音が増えたせいかも.....静寂が無くなったから.....ゲームとかCDの選択的デジタル音に慣らされているから?.....聴く力と考える力は直結している....このままでは困るね...

   この会話を思い出したのは昨日、ビウエラレッスンのときの水戸先生のことばからでした。倍音でマントラを唄詠したときなぜ空間が熱くなったのか...という問いにいとも簡単に「音は振動だからだよ」という明快な答が返ったのです。音は波である、空気を振動させる、だから熱くなる。倍音ゆえに余計そうだったんですね。ちなみにCDやゲームのデジタル音はパルスであって音本来の振動ではありません。

   
   水戸先生とこんな話もしました。「先生の耳は格別いい耳だから、下手なビウエラをお聞かせすると、辛いだろうな..と遠慮してしまう」と申しますと。正直つらいときがある。下手な音を聴くと自分も下手になる....という衝撃の返事がかえってきました。そうだ、たしかに....とわたしは思いました。語りの会でほんとうに共鳴したときは一度聴いただけで語れます。ですが、反面くせやなにかが耳にこびりつき、実際にうつってしまって、自分でぎょっとすることがあります。耳はコピーしてしまうのです。

   話はすこし変わりますが、公演の前、テープにとって全体をチェックすることはあっても、一回しか聞かないのは、聞くことで語りが次第に痩せてゆくことに気づいたからもあります。自分の語りを耳でコピーして語ってしまう....そうすると生命力、躍動感が希薄になる、ものがたりを生きるのではなくなぞってしまう。

   器楽にしても語りにしても朗読にしても、ほんもののいいライブを実際に聴くことは喜びであるとともに上達のためのひとつの方法なんですね。子どもたちのためにうつくしい日本語で語りたい....というのも根はおなじです。子どもたちがやはらかな感性、やはらかな耳、やはらかなみずみずしい心を持っているうちに、質のいい音楽や演劇や語りや朗読を おとなたちが届けるのはおおきなおおきな贈り物です。

   心に”響く”というのは文字とおり響く.....人の声や音楽の振動に身体や心や魂が揺り動いている....共鳴している状態なのではないか....ライブがより感動を生むのは生の振動が伝わってくるからです。そこに子どもたちの耳を変える活路のひとつがあります。



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