先日会ったまだ若い友人は、つぎつぎと愛する近しい方の病にみまわれていました。運命の奔流のなかで友人は必死で情報をあつめ、抗がん剤や放射線治療について調べ、ときには勇気を振るい起こして医師たちに治療法の変換を求めたそうです。そして近代医療にまかせ切るだけでなく、代替医療を併用し、食事や生活を変えることを考えました....それは4年前わたしも体験したことで、張り詰めた当時のことがまざまざと甦ってきました。
わたしはこのごろ病はそのひと自身のうちから起こるのではと感じています。もちろん遺伝学的なこともあるでしょう。しかしそのうえにそれも含めて習慣化された日々の過ごし方、対処の仕方というもの....毎日生まれてくるストレスと、どうつきあいどう解消してゆくかにそれぞれの性格が端的にあらわれると思うのです。
たとえばわたしの右膝の故障は人生においていつも戦闘態勢であったことと関係があります。自力整体をして身体の右側が固いことがわかったのですが、いつも右足に比重をおいて臨戦態勢にあったんですね。.....わたしは心の底で「女であることで男には負けたくない」といつも思っていました(笑)女の武器をつかうのを潔しとはしませんでした。今ではそう固いことを言わないでも使えるものは使えばよかったのに....と思うのですが、そう思ったときには使いたくとも使えなくなってるところがおもしろいです。
右側の血流やリンパの流れがとどこおると消化器官に流れにくくなるのだそうです。そのうえにストレスがかさなり潰瘍がおきやすかったのですね。夫は糖尿病ですがヒーリングの講座を受講したとき聞いた話では”糖尿病は緩慢な自殺願望”なのだそうです。ぎょっとしました。そんなまさか.....と夫のことを観察しているうちにはっと気がついたことがいくつかありました。.....ことばにはまだできませんけれども。
夫は...クスリをのむとカラダがきついといって降圧剤もインシュリン注射も自分の意志でやめてしまいました。内心心配したのですが血圧も血糖値も正常値を保っています。性格はガラリと変わりました。忍耐つよくなり、かっと怒ることもなくなりました。食生活も変わりました。ステーキが好きだったのに肉には見向きもしません。酵素玄米と味噌汁、漬物、野菜と納豆、それに梅干があれば満足のようです。わたしは燃え盛る太陽のようだった、どこまでもついてゆきたい....とおもわせてくれた、傍若無人なほど自信にあふれた夫がときになつかしくもなるのですが、その彼についてゆくのは台風のあとを追いかけるようなものでした。
先日 取り引き先の社長が亡くなっていたことを知りました。夫とおなじ糖尿病でインシュリンを手放せず、透析をしていると聞いたことがあります。豪放磊落な破滅型といってもいいひとでした。豪放のそこに繊細さもあるひとでした。彼はすべてやり尽くした...と言いました。そして生活を変えることなく飲んだくれて赤い顔をしていたものです。それはそれで選び取った人生といえるでしょう。
今にしてわたしは片目を失い、なみはずれた体力をうしなった夫の絶望と孤独に想いをはせることができます。屈辱感、焦燥感、絶望、悲しみありとあらゆる負の感情が夫を襲い、まんじりと眠れない幾夜もあったことでしょう。そんなあるときわたしは、夫に背を向けてしまいました。わたしの絶望、身体の痛みに目をくれようともしない夫にこれ以上尽くせるものかと思ったのです。あのときあなたも眠れぬ夜をすごし周囲を気遣うゆとりもなかったのだと痛みとともに思うのです。
夫はあたらしい自分を受け入れ忍耐強くひとに接し、逆風のなか陣頭で指揮をとっています。今 わたしは夫がひとの手を借りるところは借り、自分でできることはできるかぎりしようと生きていることに心を動かされています。ひとりでは病院に行くことさえしなかったひとが、電車に乗るのが大嫌いだったひとが、わたしの知らぬ間にひとりで電車で他県の病院に定期検査に行っていたのでした。....あなたはわたしにとって勇敢だけれど無鉄砲な勇者でした。今 あなたは思慮深い賢人であり真のヒーローになろうとしているのでした。
自分自身さえそれと気づかない隠されたうらみや憎悪はひとのカラダを蝕みます。我慢をしてはいけない、自分を偽ることは美徳ではないのです。感じたこと思ったことは伝えたほうがいい。それらのこと、日々の愛憎..から生まれる澱のようなものをどう流してゆくかは...カラダの求めにこたえ、カラダが真に欲している食物を食し、運動によってチューニングをするとおなじくらいたいせつなことです。
病とは、生き方のリセットのチャンスのように思います。身体から発せられた愛のメッセージのように思われます。そのメッセージに気づき生活を変えてゆけるひとはしあわせですね。
友人の顔は耀き、笑顔であふれていました。絶望や悲しみをのりこえてゆくこと、かなしみや希望をだきしめることはひとを浄化し耀かせる。ものがたりのなかでもそうなのではないかな.....登場人物とともに深い絶望や限りない悲しみに身をゆだねること、躍り上がるような喜びを体験することは浄化(カタルシス)にほかなりません。そのようなものがたりを読書でも、芝居でも語りでも身体やこころで感じる体験をつんだひとは、そのつど再生すると同時に実際の人生におけるさまざまな対処法を知らず知らずに身につけてゆくのではないでしょうか。
カーブの発声をしてみせるとすぐに響きがわたしのうしろから回って前に出ていると指摘してくれました。耳がいいなぁ...とわたしはうれしくなりました。運命の潮目をくぐりぬけたあとの友人の語りを聴きたい....と思いました。
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