石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(40)

2020-07-15 | その他
(英語版)
(アラビア語版)

第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)

4.うっぷん晴らしとしっぺ返しの悲劇
 前章でイラクはクウェイト進攻により全世界を敵に回したと書いたが、厳密に言えば進攻直後に開催されたアラブ首脳会議でヨルダンを含むいくつかの国はイラク寄りの姿勢を採ったのである。「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら、イラクのクウェイト併合を非難するのは矛盾している」とするフセイン大統領の主張、いわゆるリンケージ論が一部のアラブ諸国の琴線に触れたのである。ヨルダンの場合、市場価格を大幅に下回る価格でイラクから石油の供給を受けており貧乏な小国ヨルダンはイラクに頭が上がらなかったと言う事情もあった。

 巧妙なフセイン大統領はイスラエルに対して18回にわたりミサイル攻撃を仕掛けた。イラン・イラク戦争のどさくさにイスラエルが自国のオシラク原子力発電所を爆撃したことに対する報復措置というのが国民に対する説明であったが、イスラエルを挑発して戦争に巻き込もうとするのが彼の狙いであった。自衛のためなら先制攻撃も辞さないイスラエルがイラクのミサイル攻撃に黙っているわけはない。実際イスラエル世論は対イラク戦争への参戦一色に染まった。

 それこそフセインの思う壺だった。イスラエルが参戦すれば過去の4度にわたる中東戦争の図式が再現され、イラクの一方的な侵略戦争はアラブ・イスラーム対ユダヤという民族戦争に一変する。この戦争でサウジアラビアは米国など西欧キリスト教諸国を中心とする多国籍軍に駐留を認めており国内外のイスラーム宗教勢力から批判を受けていた。もしイスラエルが参戦すればサウジアラビアを含むアラブ諸国は苦しい立場に立たされることになるのであった。

 米国は必死になってイスラエルを説得し反撃を思いとどまらせた。もし(歴史に「もし」は禁句であるが)イスラエルが参戦していればフセイン政権は間違いなく倒れていたであろう。敵の息の根を止めるまで戦いを止めないのがイスラエルの戦略である。その結果中東は大混乱に陥ることも間違いない。しかし当時の米国はサウジアラビアなどの湾岸アラブ産油国を自陣営に引き留めておく必要があった。イランに加えてアラブ諸国まで敵に回すのは何としても避けたかった。

 イスラエルに対するイラクのミサイル攻撃を大歓迎したのはイスラエル占領地のパレスチナ人であり或いはヨルダンに住むパレスチナ難民たちであった。アラブ各国の首脳は口を開けば「イスラエルを地中海に追い落とせ」と威勢の良いことを言うが、実際に行動に踏み切った為政者はイラクのフセインただ一人だった。フセインなら本当に自分たちの夢を実現してくれるかもしれないという幻想にパレスチナ人たちが取りつかれたのも無理のないことだった。彼らはフセイン支持を声高に叫び日頃のうっ憤を晴らしたのであった。

 声に出さないまでも心の中で快哉を叫んだパレスチナ人もいた。クウェイトに出稼ぎに来ていた者たちである。まともに仕事もできずただ傲慢なだけのクウェイト人に奴隷のようにこき使われていた出稼ぎの彼らは、イラク軍に攻め込まれ、慌てふためいて隣国サウジアラビアに逃げ込んだクウェイト人たちを見て留飲を下げた。そして次にイスラエルがミサイル攻撃を受けたとき、米国に押しとどめられてイスラエルが反撃できないことを知り、ひょっとすればフセインが自分たちの祖国を取り戻してくれるのではないかという期待に胸を膨らませたのであった。

 しかしフセインの野望も、そしてパレスチナ人たちの期待も所詮は邯鄲(かんたん)の夢であった。半年後にクウェイトは解放された(湾岸戦争)。しかしイラクは撤退の置き土産に油田地帯に火を放った。クウェイトの砂漠に真っ赤な炎が立ち昇りあたりには原油の黒い飛沫が飛び散った。クウェイトの上空は黒煙に包まれ、昼なお薄暗い日々が続いたのであった。

ジャービル首長などサバーハ家王族は亡命先のサウジアラビアから舞い戻り、クウェイトは落ち着きを取り戻した。彼らは解放に力を貸してくれた米国をはじめとする多国籍軍の派遣国に深く感謝した。そのために新聞の全面広告も出た。そこにはパキスタン、スーダンなど多国籍軍に参加した国の名はあったが、軍隊を派遣できずその代わりに1兆円という巨額の支援金を拠出しただけの日本の名は無かった。

一方、クウェイトはフセインを支持した者を許さなかった。政府はパレスチナ人とヨルダン人全員を国外追放処分にした。国境の南にあった日本人が操業する石油基地もクウェイトが50%を握っていたためその対象となった。パレスチナ人たちのうっぷん晴らしに対するクウェイト側のしっぺ返しである。しかしクウェイトの行政と経済を下支えしていた彼らを追放すればどうなるかは日の目を見るより明らかだった。クウェイトの受けた傷は深く、それは四半世紀後の今も癒えていない。

(続く)

荒葉 一也
E-mail: areha_kazuya@jcom.home.ne.jp

ホームページ:OCININITIATIVE
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吸い上げる米国と中国、吐き出す日本:UNCTAD「世界投資レポート2020年版」(8)

2020-07-15 | その他
(世界ランクシリーズ その9 2020年版)
http://mylibrary.maeda1.jp/0509WorldRank9.pdf

(世界ランクシリーズ その9 2020年版)

3.FDI Inward Stock(FDIインバウンド残高) (続き)
(40年間に全世界で17倍に増加したインバウンド残高!)
(2) 1990-2019年末のFDI Inward Stock(FDIインバウンド残高)の推移
(図http://rank.maeda1.jp/9-G04.pdf参照)
 ここでは1990年末から2019年末までの全世界並びに主要経済大国(米国、中国、日本、インド)及び中東3か国(サウジアラビア、トルコ、イラン)のFDI Inward Stock(FDIインバウンド残高)の推移を概観する。

 世界全体の1990年末のFDIインバウンド残高は2.2兆ドルであった、その後2000年末には3.4倍の7.4兆ドル、2010年末には19.9兆ドルに増加、2019年末の残高は36兆ドルを超えている。全世界のFDIインバウンド残高は1990年から2019年までのほぼ30年間に17倍に膨張している。
 
 国ごとに見ると世界最大の残高を誇る米国は1990年末の残高5,400億ドルが2000年末には5倍の2.8兆ドルに急増、2000年代は増加率が鈍ったが2010年代に入ると再び急拡大し、2019年末の残高は9.5兆ドルに達している。1990年からの30年間の伸び率は世界全体とほぼ同じ18倍であった。

 日本のFDIインバウンド残高は、99億ドル(1990年末)→500億ドル(2000年末)→2,100億ドル(2010年末)→2,200億ドル(2019年末)であり、30年間の伸び率は世界平均を若干上回る23倍である。年代別に見ると1990年代及び2000年代は4~5倍の大幅な伸びを示したが、2010年代はほとんど残高が増えていない。

 これに対して中国の残高の推移は、200億ドル(1990年末)→1,900億ドル(2000年末)→5,900億ドル(2010年末)→1.8兆ドル(2019年末)と1990年代は9倍、2000年代及び2010年代も10年間で3倍の大幅な伸びを示しており、かつて1990年末に米国の30分の1でしかなかったインバウンド残高は、2019年末には5分の1まで縮まっている。

 中国をさらに上回る急成長を遂げたのがインドである。1990年末以降のインドのインバウンド残高は、17億ドル(1990年末)→160億ドル(2000年末)→2,100億ドル(2010年末)→4,300億ドル(2019年末)であり、2000年代は10年間で13倍に急成長し、2010年代には日本を追い越している。

 サウジアラビア、トルコ及びイランの中東3か国を比較すると、1990年末の残高はサウジアラビア152億ドル、トルコ112億ドルであり、イランは20億ドルに過ぎなかった。3か国のFDIインバウンド残高は2000年代に急成長し、2010年末のトルコの残高は1,900億ドル、サウジアラビア1,800億ドル、イランは300億ドルであった。3か国はいずれもこの10年間に10倍以上増加している。2010年代の増加率はそれまでより大きく減速し、トルコの2019年末の残高は2010年末を下回っているほどである。全世界の残高が1.8倍、米国、中国が3倍増加しているのに比べ2010年代の中東諸国のインバウンド残高は増加していない。

(続く)

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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp
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