二つ星の空

(旧「風からの返信」-11.21.09/「モーニングコール」/「夢見る灯台」/「海岸線物語」)

「若者たち2014」ド直球の剛速球、君は受け止めたか、その青き心で(第1話視聴感想)

2014-07-13 12:57:12 | Weblog
ここ2日ほど、森山直太朗の「若者たち」が、頭の中をエンドレスで駆け巡っています(苦笑)

くそー、耳から離れねぇ(笑)つい、歌っちゃうじゃないか。
実際、仕事から帰る途中とか、夜道を歩いてると歌ってる自分に気がつく。
やっぱすげーわ、「若者たち」。


空を見上げて、ふと思う。
あー、きっと、こんな番組を観たかったんだな。ずっと。


世間のインターネット情報に由りますと、第1話の評価はどうも賛否両論だったらしい。でも、それこそがこの作品の神髄かな、という気はする。

だから、Yahooプレミアムでのオンライン試写会の感想にも「見所満載、その台詞と展開に突っ込むもよし、共感するもよし、一粒で何度でもおいしい「若者たち2014」」と書いたものだった。

今の時代、これだけ賛否両論が巻き起こり、各人が、自分の思いと解釈を激しく戦わせている、というのも、「若者たち2014」が視聴者にその熱を感化した一つの証明ではないかとさえ、思う次第。


どこかのテレビでコメンテイターさんがおっしゃっていたように、若年層の貧困問題はリアリティがないどころの話ではなくて、NHKドキュメンタリー等でも盛んに取り上げられている。だから、このドラマが「現実味がない」「いつの時代の話だ」なんて、失礼な言いぐさだと思うんだ。

でも、きっと杉田監督は「今の現実の若年者貧困問題」を描くところに主眼があるわけではなくて、「どの時代にも共通する様々な形での逆境」の中でもがく若者・人間を描きたいのではないか、という気がする。

貧しさなんて、あっという間だ。他の逆境だって。それを知らない人間にとって「ありえない」と思うことが、同じ地球上の、すぐ目の前で起きていることに、鈍感な幸せ者が気づいていないだけなんだ。

加えて言うなら、同じ時代を生きていたって、逆境の度合いは、人によって感じ方が違う。
そのことが、様々な感想(いわゆる識者と言われる人達のそれも含めて)の中に透けて見えて、赤裸々な「格差社会」を、むしろこの機会に感じていたりする。

このドラマを否定する人達が言うところの「リアリティ」だけを追い求めたら、そんな「現実」では、誰一人、何一つ口にしないまま、世の中も変わらず、虐げられている者は虐げられ続け、欺く者は欺き続け、誤った者は謝罪の機会なく追い詰められ、ただ運のいい鈍感者だけが、悲劇から目を背けたまま「世の中はこんなもの」と高をくくって、人生を謳歌するだけになってしまうんじゃないのかな。

そんなの観たいか。おいらはいやだな。


その一方で、今の時代の他のドラマが「リアリティ」があるというなら、それらは、俺の知っている「現実」とは全然違うわけで、そんなドラマを「現実的だなぁ」と思う人々と、おいらは、同じ空気を吸っていながら、断絶されているとも感じるのだ。


「若者たち2014」を観て、むかついた人、驚いた人、琴線に触れ心に感じるものがあった人、ありえないと思いあきれた人、その全てに「若者たち2014」は直球で思いを投げている。

何かを感じる、ということは、何かを受け止める、ということだと思うんだ。

声を限りに自己を主張しようとしている、佐藤家の、若いきょうだい。
彼らの姿は、餌を求めて力の限りに鳴き続ける、鳥の雛たちのようにも見えた。

おいらは、あんな風に自己主張できない。きっと、今の若者でも、できない人が多いだろう。
でも、あの場面をテレビで観て、何かカタルシスを感じた人間も、何か憧憬を感じた人間も、いると思うんだ。


自分にはできない。しようとも思わない。でも、同じ人間が、あんな風に力を振り絞って、他者と交わることもできるんだ。
ざっくりとえぐるような台詞が満載の第1話で、きょうだいの本音と本音のぶつかり合いを観ていて、そう思った。


本当に信頼しているから、相手を傷つけても、本音が言える。
本当に信頼しているから、どんなに傷ついても、どこかで相手を許すことができる。


もちろん、親しき仲でも「言っていいこと」と「悪いこと」は存在する。
相手の尊厳を否定することは、どんな理由であれ、許されることではない。
だが、相手が相手であることを認めた上で、「それは違うんじゃないのか」と投げる言葉は、自分と相手の知力と思考力をフルに使って交わす、一種の格闘だと思うのだ。

そして、それができるのは(許されるのは)まだ人間として成長途中である、若者だけだ、とも。

大の大人が、全てを口に出すことはやっちゃいけませんよ。「若者」のうちに済ませておくべきことです。

だから、若者でない「新城医師」には、旭のように赤裸々に叫ぶ資格はないわけで(爆)、それを知っているはずの彼が、(日頃から気を許している)旭の剣幕にあおられて、つい言い訳にならない言い訳(未整理の感情や思考・おそらく本音?)を口走ってしまったのは、すごくかっこわるくて、リアルだと思った。あのかっこわるさといたたまれない感じの雰囲気が、ね(苦笑)。中年が若者に大外刈りかけられた感じ?だった。


若者だからこそ、真実を、生き方を、言葉で探し続ける。
そこに出てくる強い言葉は、一方的な「言葉の暴力」ではなく、試行錯誤の中で、真実を探す者同士の、真剣な言葉によるやりとり。
おきれいな「ディベート」でも「ディスカッション」でもなく、「討論」でもなく、論理的でない生々しい感情をも言語化しようと葛藤し、主張し、間違い、それにより「自分の思い」を発見していくプロセス。それを、久しぶりに観た。

それが、第1話を観ていて、強く感じたことだ。


言葉を発した時点で、それを発した人間がその言葉を信じているとは限らない。自分が反射的に口にした言葉で、初めて、その人間は、自分の中にそんな気持ちがあったことに気づくんだ。その後で、自分が言った言葉に傷ついたり、それに頼ったりしながら、人は自分がどんな意見を持つべきか考え始めるんだ。

旭が、数々のひどい(生の)言葉を言ってしまった後で、葛藤に飲み込まれ、他者にそれをぶつけて、跳ね返ってくる言葉によって、自分の思いが正しいのか間違っているのか等に思いをいたし、最終的に、(第1話終了時点では)「おれはこんな考えを持っているんだ。こううけとめていくんだ。」と腹が据わったように。

言葉の格闘技、思考の格闘技、そういった形での人間関係、というものが、本来、濃密な人間関係(家族・友人など)にあってしかるべきだと、杉田監督は、訴えているようにも思う。

家族が仮面をかぶる、現代だからこそ。


「ひどいことを言われたから、刺した(殺した)」とか言うたぐいの犯罪が昨今増えたが、世代を問わず、言葉による格闘技を知らない素人ばかりになった時代だからこその悲劇、とも言えるのかもしれない。

劇中、何度も何度もプロの選手相手に非力なパンチを打ち続けた、旭(長男)の姿を見ながら、そんなことを感じた。

プロレスを観て、形だけまねする子供が、相手を殺してしまうことがあるように。

言葉も、プロレスと一緒だ、と。
言葉は、使いようで凶器になり、でも、だからこそ、こんなにスリリングで魅力的なのだと。

言葉の使い手として、自分と相手が同じ土俵に立っているかは、ちょっと見ではわからない。
だから、言葉は、慎重に使わなければならない。

相手を思いやる教育を若い頃からすることが大切だと、おいらは思う。
だが、同時に、生々しい言葉の格闘を若い頃にしておかなかったら、大人になって、肥大化した自己愛が傷つけられたときに、相手を抹殺しないと許せないほどの「暴君」になってしまうのかもしれない。

そんなことを、何となく考えた。


なんだか、ぜんぜん「若者たち2014」の感想になっていないな。感想読みたかった人、ごめんなさい。

おいらは、「若者たち2014」観ていて、色々なことを考えさせられました。整理されていないこの思考が、第2話以降の視聴で、どう深まっていくのか、楽しみです。

この感想は、今日観た「ボクラの時代」(フジテレビ7:10~)の感想ともリンクするが、それについては、次の機会に。

では、また。
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