団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

茨木のり子さんの詩について

2006-03-04 07:27:00 | 日記
最近 亡くなった茨木のり子さんの関して日経の夕刊に「しみわたる言葉」というコラムで詩を紹介されていました。私は茨木さんという詩人は知りませんでしたがこの詩に心が動かされましたので紹介させていただきます。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木さんのプロフィール紹介の中でこの詩に関して次のように述べられています。

 実は、この詩の種子は戦争中にまでさかのぼるんです。
 美しいものを楽しむってことが禁じられていた時代でしたね。でも、その頃はちょうど美しいものを欲する年ごろじゃありませんか。音楽も敵国のものはみんなだめだから、ジャズなんかをふとんかぶって蓄音機で聞いたりしてたんです。隣近所をはばかって。これはおかしいな、と。
 それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。それに対して、おかしいんじゃないか、死ぬことが忠義だったら生まれてこないことが一番の忠義になるんじゃないかという疑問は子供心にあったんです。
 ただ、それを押し込めてたわけですよね。こんなこと考えるのは非国民だからって。そうして戦争が終わって初めて、あのときの疑問は正しかったんだなってわかったわけなんです。
 だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。そうしたときに、自分の感受性からまちがえたんだったらまちがったって言えるけれども、人からそう思わされてまちがえたんだったら、取り返しのつかないいやな思いをするっていう、戦争時代からの思いがあって。だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」なんですけどね。一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです。
 国立博物館は戦争中も開いてたんです。だから、戦争中も、美しいものが見たくなると行って、一日館内まわってました。あすこ行くのが好きでしたね。そうねえ、二月に一回は行ってました。
 戦後もそうでした。すぐには復興しなかったですから。特に学校のあった蒲田は、工業地域だからみんなやられちゃって、防空壕に人が住んでたんです。防空壕から煙突が出てて、そっから煙が出ててね、そこに出入りしてるの見ると、アリみたいでしたね。銀座なんかも、あー、貧相だなあって感じで(笑)、悲しいなあと思って見てました。ですから、居場所っていうと、国立博物館が一番やすらぎましたね。

茨木さんってこの文章からも人間的に魅力的な人だなということがうかがえます。
もう一つ有名な詩を紹介します。

わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった 

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

この詩に関して次のように述べられています。
 今、お友達とも良く話すんですけど、若い頃ってかろやかな楽しみが多かったですね。ええ、かろやかな。年を取るとおもったるくなっちゃうの、すべてがね。
 今はものがあふれてるから、そんなことはあまりお感じにならないかも知れないけど、私達はもう、靴一足買ってもうれしかったわけよ。それからレインコート買っても嬉しかったしね。そういうささやかな楽しみっていうのはありました。でも、おしゃれをしたいとか、そういうことはできなかったのね。
 ただ、ああ、今はたちなんだって思ったときがありました。鏡見たら、目が真っ黒くろに光っててねえ。うーん、そうか、今はたちなんだ、今が一番きれいなときかもしれないっていうふうに思ったのね。残念なのは、自分の若さが誰からもかえりみられないということ、特に男性達から。かえりみられるっていうとおかしいんだけどなあ。
 それで、私がラブレターをもらったことがないって書いたら、みんなにびっくりされるんですけどね。ひとっつもないの(笑)。だからやっぱり時代的なものもあるし、それからやっぱり魅力がなかったのかな? 男達はみんな戦争に負けたってことで、みんな自信を失ってたと思うのね。だから、そういうさびしさっていうのもあったんだろうなっていうのも、今になって思うんですけどね。
 「わたしが一番きれいだったとき」は、はじめはいい気な詩を書いたってみんなにいわれたんですよ。いちばんきれいだなんて自分のこと言ってるってね。ところが、ほんとに自分でも無意識だったんですが、私と同世代の人達は、自分たちを代弁して、自分達の世代をうたってくれたっていうふうに読んでくれる人が多くなって。
 それから、アメリカのフォークソングの草分けで、ピート・シガーって人がいるんですが、その人が作曲してくれたんですね。そのときはちょうどベトナム戦争の時だったんです。それで私ははっきり言葉で聞いたわけではないんですが、ピート・シガーって人は、あれをもっと越えたものとしてとらえてくれたなってうれしさがありました。つまり、ベトナムにはベトナムの、一番美しい時を持った少女たちがいたわけですからね。そういう子達の思いっていうのもふくめてくれたなって。だから、そういい気な詩ではなかったなって今になって思うんです。
 一番美しいときは、やっぱり最高に輝いてほしいわけ、どこの国の少女たちにもね。戦争なんかで惨憺たる思いさせたくないじゃないですか。そういう願いの詩ととってもらえればね。
 あれを書いたのは30過ぎなんですけど、それまでにもずっとそういう思いっていうのがあったわけではなくて、なんとなく、書きはじめたら最初から最後までつーっといっちゃって、ほとんど推敲しないでできちゃったのね。ちょっと珍しいんです、私にとっては。いつでも途中まで書いて、後で読むといやだなあって思ったりするんですけど。言葉がどんどん並んできたから、やっぱりあれはできるべくしてできた詩かなあ、と。誰かに書かされたかなあって感じもします。

私の短絡的な発想ですが、女性の16歳から22歳くらいまでは特に輝いています。
その時、男性から声がかけられないということは一種の悲劇です。
若者よ 大いに輝いて一番美しい時代を生きている女性たちに恋をしてください。
恐れていないで。戦争の時でしたら声をかけることも許されないのだから。
大いに自由な時代を謳歌してください。

私も茨木さんの詩集を一冊買ってみようかな。






コメント
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