団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

茨木のり子さん ③

2006-03-11 06:21:00 | 日記
茨木のり子さんに関して最後の記述とします。茨木のり子さんのプロフィール紹介の中で人間幾つになっても初々しさを失ってはいけないとの記述がありました。誰もが人間年を取ると人生のベテランのように振舞わなければならないと思ってしまいますが、そんなことはない。ドギマギしてもいいんだよと言っています。私もこの詩で安心しました。そうなんだ人間幾つになってもドギマギしてもいいのだと。
下記にその詩を記述します。
汲む
 ―Y・Yに―

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

このY・Yさんとは夕鶴の舞台俳優として有名な山本安英さんとのこと。
山本安英さんの出会いについての記述を記載します。

山本安英との出会い

 「Y・Yに」は女優の山本安英さんのことですが、山本安英さんと初めてお会いしたのは、昭和二十二年なんです。
 土方与志さんっていう、今の方はわからないかもしれませんが、新劇運動の創始者で、築地小劇場をつくった方が、佳作になった私の戯曲を読んで、女性で戯曲を書くのはめずらしいからあなた会ってごらんなさいって山本さんに勧められたらしいんですね。それで向こうのほうから学生寮にお手紙下すって、私はそのときとってもうれしかったんです。きれいな字でね。それから戦後ずっと山本さんとのおつきあいが始まりました。
 そのころは、山本さんは結核がまだ治り切らなくて、寝たり起きたりしてらっしゃいましたから、私は山本さんのお宅をおたずねしては、いろんなお話をうかがってたんです。私が山本さんから得たものはとても大きいんですね。そのころは四十くらいでいらしたけど、人間が生きていく基本みたいなもの、親やら先生からは得られないような大事なものを、私は山本さんからたくさんいただいたと思ってるんです。
 生き方の根本みたいなものって、どう言うのが一番いいかなあ。あのね、私、山本さんの色紙を一枚持っていたんです。生前、あまり色紙をお書きにならなくて、現在、夕鶴記念館に寄贈したのですが、それは
「静かにいくものは
 すこやかに行く
 健やかにいくものは
 とおく行く」
っていうんです。
 女優さんなんか、派手で、一時期脚光を浴びて、それですぐだめになる人が多いでしょう。ところが山本さんは、この色紙のことばを一生かかって体現したのですね。 初舞台は大正十年ぐらいだったと思うんですけど、築地小劇場で女優さんとして始めて、ほぼ七十年間、九十歳で亡くなられるまで、最後まで第一線だったんですよね。あのみごとさっていうのはないと思うんです。けっしてきらびやかではないけれども、ほんとに本質的な女優さんだったと思いますね。
 それともう一つは、芸術家っていうのは奔放無頼、何をしてもいいとみんな思ってるけど、私はそうは思いませんっておっしゃるんですね。長い間いろんな人を見てきたけれど、一流の芸術家は社会人としても立派だって言うんです。当時私は、こんな常識的な生きかたしてていい詩なんかできるはずないってどこかで思ってたんですが、でもそうじゃないってこと。そういったことを、教えるっていうんじゃなしに、自分の話として言って下さるんですね。そういうのが私にはびしびしききました。
 それから先年亡くなられるまで、ずっとおつきあいは続いていました。それはたったひとつ私の誇れることですね。
 当時、自分の身のまわりにいた女性達とはぜんぜん違ってた。第一ことばがよかった。っていうのは内容があるってことなんですけど。それから生き方の問題とか、いろいろあるんですが、そういうことってすごく大事で、だからあなたもね、はたちなんだし、そういう人を見つけられるといいですね(笑)。



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茨木のり子さん ②

2006-03-11 06:20:00 | 日記
茨木のり子さんが次のように述べられてます。

民主主義者への許しがたい転換

 今から思いますとね、最初はそれこそ軍国主義的にマインドコントロールされてたんですよ。マインドコントロールなんか、ほんとに今のはやりですけれど、あれは昔っからあったのでしてね。がんじがらめにさせられてたわけ。それが郷里に帰りまして、一月とたたないうちに民主主義者になってたんですよ(笑)。
 それが今ふりかえると許せないって感じ。その程度のものだったのかなあという感じですね。国のために死のうと思ってましたから。
 もうね、戦争に負けたら、とたんに新聞がばあっと民主主義になっちゃったわけですよ。だから新聞読むと、そうか、間違ってたのかって具合に、また洗脳され始めるわけですね。せめて一年ぐらいはね、自分でもう少し考えとけば良かったなって思うんですけどね。もう、情けないなって今になって思いますね。自分があんまり軽薄だったのが許せないって思います。

私もこれと同じような話を学生の頃聞きました。今の世の中、調べようとすれば世界の動きがわかります。マスコミには十分注意してマインドコントロールされないようにしなければと思います。
今 少子化が大問題のように政府は大騒ぎしていますが、実際はどうなのか?少子化と言ってもまだ日本の国土からいえば人が多すぎる筈です。人の減少に見合う政策をとればいいはなしです。官僚が描いた構想を方向転換すればいいはなしだと思います。
茨木さんからのヒントは自分で物事を考えること。人の意見を自分の意見と錯覚しないことなどです。
次に戦争について書かれています。
いまだに第二次世界戦争で日本がしたことは戦略戦争でないと言いはる人がいますが、茨木さんは戦略戦争だとはっきり言われてます。また日本は、軍人、政治家、マスコミ すべての人が一億玉砕といいながら沖縄のみ犠牲にしてギブアップした。
この無責任体質は今でも変わっていないと私は思います。

茨木さんの戦争についての記述

戦争の意味

 はたちの誕生日は、戦争中で動員先の寮にいましたし、ああ今日がそうか、ってぐらいでしたね。今の人たちじゃ想像もつかないくらい、もう話にもなにもならない状況でした。食べ物はひどいし。専門学校に入った頃なんて、あそこの食堂が開いてるってわかると、それって具合にみんなで行って、蒲田の、京浜工業地帯の工員さんたちに混じってがつがつ食べてたんですね。
 だけど、みんなこういう話ばっかりし過ぎて、子供たちは聞くのいやだっていうでしょ。それで、あの戦争はなんだったかってことを次の世代にちゃんと伝えられなかったって気がしてしょうがないのね。それぞれが戦争を自分の意識のなかで組み立ててないというか。
 私のなかではわりとはっきりしています。東洋に対しては、あれははっきりと侵略でした。ひどいことしましたよね。それじゃ、アメリカとの戦争は、あれはなんだったのかってずっと思っていたんですけど、ベトナム戦争のときに、ああ、これと同じようなものだったんだなって思ったんですね。要するに、アメリカの日本に対する侵略ですね。ベトナムの場合は最後まで戦ったわけでしょう。アメリカが敗退したわけですよね。でも、日本は一億玉砕とか言っていて、私も死ぬつもりだったんですが、それなのに沖縄だけを犠牲にして、「負けました、はあい」って言ったのは、ベトナムに劣ると思ったんです。
 負けっぷりのまずさを今も引きずっていますね。




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