イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

水軒沖釣行

2021年07月09日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 5:00満潮
釣果:ボウズ

休日を2回も棒に振ってしまっているので今日はなんとか釣りに行きたい。幸い夜明け前後は雨は降らないようだ。午前中にコロナウイルスワクチンの2回目接種に行かねばならないので勝負が早いチョクリ釣りに行くことにした。
老化のせいか、午前3時前に起きるつもりが午前2時過ぎに目が覚めてしまった。二度寝するにも中途半端だからそのまま寝床から這い出して書きかけのブログの記事を書きながら出発時間を待つ。

午前3時半頃に家を出たのだが、夏至を過ぎて半月以上経っているからか、すぐにでも雨が降りそうな空模様なのか真っ暗だ。午前4時過ぎには港を出たが今度は霧がすごい。
港を出てすぐのいつもの場所で写真を撮るとこんな感じ。



コンテナヤードのクレーンも足元しか見えない。



何かに当てるとまずいのでゆっくり船を進める。一文字の切れ目の手前まで来てみるとけっこううねりもあるようだ。霧で景色が見えず、こんなうねりではかなり怖いなと思うのだが、そうやって思考している間に船は切れ目にどんどん近付きUターンできないほどになってしまった。仕方なくそのまま突入。

まあ、恐怖を感じるほどではないけれどもやはり怖い。多分2キロも沖に出ないうちに一文字の影が見えなくなってしまった。見えるのは工業団地の工場の明かりだけである。



それでもうねりがなければもう少し走って仕掛けを出してみようと思うのだが時たま大きなうねりが襲ってくる。これではダメだとすぐに帰港を決断。

港に戻ると、出港前に比べてもまた霧が深くなってきたようだ。



湿度はほぼ100%にまで達しているのだろう。体中がベトッとしている。でも僕はこういう天気は嫌いではない。港は養翠園という紀州徳川藩の大名庭園だったところのへりにあるので海のそばと言いながら木々が多い。草いきれとは言わないのだろうが庭の木々が発散する植物のエキスが湿気とともに匂ってくる。

こんな日でも港の周りには早朝でも営業しているお店があるのはありがたい。クーラーボックスが空っぽでも他のもので埋めることができる。

  

午前6時には家に到着していたので新しく買ったパソコンのセットアップをやってみた。



新品で買うと希望のスペックのものがオフィスソフトなしで8万円もするので中古のものを買ってみた。これはマイクロソフトのオフィスソフトが付いて5万円だ。CPUのスペックは新品に比べると劣るが僕が使うには十分だろう。これの前に買った中古のノートパソコンが意外とサクサク動いてくれるのでメインに使う機械も中古でよかろうと考えたのだ。それに、僕のへそくりで出せるオカネはこれが限度だ。
元のパソコンからのデータの移行やネット環境を整えるのが面倒なのだが、今使っている機械は8年以上経ちかなり動きが遅くなってきて、OSも新しいバージョンがリリースされるようなのでこの機会にと思い切った。この記事は新しい(といっても中古だが・・。)パソコンで書いているが、けっこうサクサク動いてくれている。
しかし、さすが中古、モニターがないのはわかるがキーボードもマウスも付いていない。古いやつもバックアップ用に残しておこうと思ったのだがこれではダメじゃないか・・。

格闘すること約1時間、大体の作業を終え午前9時を回ったので図書館経由でワクチン接種に出かけた。1回目は待ち時間0分で終わったが、今日はやけに人が多い。混む時間帯だったのだろかもしれないが、窓口でほかの人と窓口の受付の人の会話を聞いているとワクチンが足らなくなっているという報道を見て急いでやってきたような人もいるようだ。(ここは予約なしで注射してくれるのだ。)



それでも借りてきた本を5ページも読まないうちに順番が回ってきてミッション終了。



2回目はけっこうしんどいと聞いていたけれども、接種から9時間、今のところ腕が少し痛いくらいだ。相変わらず眩暈がひどくて動悸や息切れもしょっちゅうなのでかなり心配したが大したことはなさそうで、やっぱりこれは日ごろの汚い生活が免疫力を高めてくれているのだろうとセレブの人たちよざまあ見ろという感じなのである。




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「はずれ者が進化をつくる  生き物をめぐる個性の秘密」読了

2021年07月04日 | 2021読書
稲垣栄洋 「はずれ者が進化をつくる  生き物をめぐる個性の秘密」読了

新聞の記事で、著者の著作は入試問題によく出題される代表だということが書かれていた。はて、どんな文章を書く人なのだろうと思って読んでみたが、途中で気がついて過去のブログを見てみたらすでに2冊も読んでいた人であった。やっぱり記憶力がない・・・。

この本については、SMAPの歌を理科系の人が本に作り替えたらこうなるんじゃないかという感じだ。そして、科学の本というよりも道徳の本というような内容だ。
雑草の生存戦略や人間の特性などを例に上げ、人と同じでなくてもいいのだよと説いているのである。
元々この本、「ちくまプリマー新書」という、小中学生向けの新書のシリーズなので定年退職を前にして人と同じでなくても大丈夫と言われてももう遅いと愚痴を言いたくなるだけなのだ。毎日ペコペコ申し訳ございませんと誰彼になく頭を下げ続けてきたのでそんな勇気はどこかへ吹き飛んでしまった。

とりあえずはこの本のまとめを少しだけ書き留めておこう。

人はそれぞれ違って当たり前ということを、すべての生物の共通祖先である単細胞生物、それは「ルカ」と呼ばれているそうだが、そこからこれだけ多様な生物が生まれた。だから、多様性、人それぞれの個性があって当然なのであるという。
また、人の体の構成(目や耳の数、指の本数)は自然界で生きるためのベストな形としてあるけれどもその形は人それぞれだ、性格も違う。それは、そういう個性が人間にとって必要なのだ。

しかし、人間は「比較したがる」「順番に並べないと理解できない」「複雑なものは単純化しないと理解できない」。そうしないと脳が理解できからだ。それが「平均」とか、「ふつう」であるべきということにむすびついてゆく。
一方では、「ガウゼの実験」というものが証明しているように、自然界では「ナンバー1」しか生きのこれない。だから競争というものが生まれる。
普通の中のナンバー1だけが勝ち組というのが人間の世界だ。

ここで著者は「オンリー1」と「棲み分け」という言葉を提示する。自然界では生物は棲み分けをしながらそれそれの場所でナンバー1となって生き残り続けてきたのだ。だから読者にも自分が輝ける「ニッチ」を見つけなさいという。ただ、そのニッチは他の人も狙っている。だから「ニッチシフト」自分でつくり出しながらナンバー1を目指せという。

自然界では負けることは即、死につながるが人間界ではそんな心配はないのだから自信を持てというけれども、実社会ではどうだろう。まずはそれで稼げるかという問題がある。おカネがないというのはこの世界では死よりも辛い。また、この本には人間関係というものがまったく取り上げられていない。嫌なら逃げればいいというけれども、逃げればおカネを貰えなくなる。だから悩みは尽きない。

結局、そんな世界で成功する人間と負け組だと思いながら生きる人間の違いとは、自分は人と違って当たり前と思いながら生きるか、人と比べられたくないからわざと違うように装いながら生きているかの違いなのではないかと思うのである。

多分、こんな答案を書いたら絶対0点だということだけは確かだ。

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「仏像に会うー53の仏像の写真と物語 」読了

2021年07月03日 | 2021読書
西山厚 「仏像に会うー53の仏像の写真と物語 」読了

著者は、『半蔵門ミュージアム館長、帝塚山大学客員教授、奈良国立博物館名誉館員。徳島県鳴門市生まれの伊勢育ち。京都大 学大学院文学研究科博士課程修了。奈良国立博物館で学芸部長として「女性と仏教」など数々の特別展を企画。』というような人だそうだ。

著者が出会ってきた仏像の中で個人的にお気に入りの仏像について由来や見どころを写真入りで解説している。
「見る」ではなく、「会う」と書いているところがミソであるように思う。仏さまというのは見るものではなく出会うものなのだそうである。
記憶力がまったくなくて、阿弥陀如来様の脇侍がどんな名前の菩薩様だったか、釈迦如来様の脇侍がどんな名前の菩薩様だったか、八部衆、明王、天の名前、そんなお名前を記憶にとどめることがまったくできない。

話はまったく変わるが、人の頭の良し悪しには、脳の中にあるグリア細胞の数というものが鍵を握っているらしいことがわかってきたそうだ。
この細胞は、脳の神経細胞の周りにたくさん存在していて、脳の中の信号の伝達速度を速めたり、記憶力についても影響を及ぼしているそうだ。アインシュタインの脳には一般の人の1.7倍のグリア細胞が存在したということがわかっているらしい。
だから、僕の脳の中にはおそらく一般の人の半分くらいのグリア細胞しか存在していないのだろうなと思う。みうらじゅんやいとうせいこうのテレビ番組や著作を見たり読んだりしていると、この人たちの記憶力と理解力に感嘆してこれだけの知識と蘊蓄がすらすら出てきたらそれは仏像を見ていても確かに対話をしている感が十分実感できるのだろうなと思うのである。

なので、ひょっとしなくても、僕の場合、恋焦がれはするものの仏様の方から拒否されているということになるのだと思う。だからだろうか、たまに博物館なんかで拝見しても、どうもその美しさというものが実感することが難しい。こういった本や写真集の画像というのは光線の当て方や画角が計算されていて、仏様にまつわる話も解説されているので親近感や出会ったという実感が持てるのだと思っていたけれども、それが記憶力と理解力の欠如によるものなのだとなってしまっては、僕には仏様の救いというものを願っても無理な話なのかもしれない。
実物を前にしても、ただ佇むだけなのである・・。

少しだけ53体の仏様の中でこれは、と思った仏様について書いておきたいと思う。

おひとり目は、興福寺のあの有名な阿修羅像をはじめとする八部衆だ。
元は西金堂に祀られていたという。西金堂は聖武天皇の妃である光明皇后が母の一周忌にその供養のために建立された。光明皇后は母が亡くなる4年4か月前に1歳になる前の子供を亡くしている。
八部衆の姿はその子供の成長を重ね合わせるような容姿であるという。
沙羯羅は生きていれば建立当時の6歳の頃、五部浄は11歳頃、阿修羅は10代後半、迦楼羅は母親に手をつながれた子供のような顔をしているように見えるのだ。

おふたり目は、唐招提寺の鑑真和上像だ。鑑真和上像は和上の死を予感した弟子たちが、師が亡くなる直前に造ったという。脱活乾漆造であるが、ヘラを使わずに手で漆が塗られている。また、顔の部分には普通は使いにくい麻布が使われているが、それは鑑真和上の法衣が使われている可能性がある。それは、小物を挟まずに少しでも和上に近づきたいという思いであったかと著者は考える。
陰影のあるその姿は厳しくもあり優しくもあるように見える。

三人目は、中宮寺の半跏思惟像。
如意輪観音として信仰されてきたが弥勒菩薩であろうというのが著者の見解。かすかな微笑としなやかな指先のお姿は聖徳太子が亡き母の供養のために作らせたと言われている。


三体の像に共通するのはある人の思いが強烈に込められているということだろうか。もちろん、それを刻んだのは別のひとだろうが、その人の思いが刻むひとに乗り移るのか、それとも、思いがこもった像は造られた後にその姿をその人の思いに合わせて変化するものなのだろうかと思いをはせるのである。
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「脳と森から学ぶ日本の未来」読了

2021年07月01日 | 2021読書
稲本正/著 小林廉宜/写真 「脳と森から学ぶ日本の未来」読了

著者の名前に聞き覚えがあると思ったら、この人は、「オークビレッジ」の代表者だった。まだ、いくつかのアウトドア雑誌を隅から隅まで読んでいた頃、多分、「OUTDOOR」だったと思うが、この人の連載記事が載っていて、飛騨の山奥で家具を作って暮らすというライフスタイルはなんと格好いいことかということとそこまでストイックには生きられないなと思いながら読んでいた。
多分この本もアマゾンのリコメンド機能で出てきたのだと思うが、面白そうなタイトルだったので借りてみた。

ひとつの功を成し遂げた人はその生涯の経験をもとに自分なりのスーパーヒストリーを語りたいものなのだろうか。著者は自身の森や木、そしてその環境の知識と、かつて大学で原子物理学を学んだという知識を融合してこの人なりのスーパーヒストリーを、そしてそこから導く日本の将来について書かれている。
ちなみに、スーパーヒストリーをウイキペディアで調べるとこんな解説になっている。
『ビッグバンから現在までの歴史を研究する新しい学問分野。自然科学と人文科学の数々の学問分野を結合した学際的アプローチを用いて、これまでの歴史学よりも、長い時間枠・大きな文脈で人間存在を探求する。そのため、これまでの学問的知見、たとえば宇宙論、生物学、化学などの自然科学と歴史学、地理学、社会学などの人文社会学の研究を統合した歴史学となっている。オーストラリア、アメリカ合衆国、韓国、日本の大学等で公式科目化されている。ビッグヒストリー・プロジェクトは、ビル・ゲイツと歴史学者デイビッド・クリスチャンが関与する運動である。』

これは読んでいる僕の方に理解度が足らないのが原因であると思うのだが、テーマが定まっておらず、あちこちに著者の知識と思いつくままに書かれているだけのような気がしてくる。確かに著者の知識は幅が広いようだ。木や自然についての知識はもちろん、脳の構造、原子、物理学、化学など自然科学の分野はもちろん、哲学、文学の話まで出てくる。だからスーパーヒストリーであるのだろうけれども、それがどういう関連性をもっているのかということに理解が及ばない。
それに加えて、『指導者とされる人々の発想や動きに優雅さや教養の深さが感じられない。人類の共通の幸福とは何か、人類の向かうべき方向は何かを指し示す度量が伺えない。そのために指導者には本書を全体的に踏まえてもらいたい。』と書かれてしまうとどうも興ざめしてしまう。

そこをこらえて著者が言わんとしていることを拾い出して僕なりにまとめてみると、新しい時代を迎えて個人と他者、社会との関係をどう見てゆくかということを考えているのだと思う。
日本では、『縄文時代の「狩猟採集+菜園式農耕社会」が1万年続いた。それが日本人の身体と精神の底の底までしみ込んでいる。その後の「農耕社会」も3000年近く続いた。その1万3000年は四季の自然に左右される社会構造だった。』。自分たちで自分たちの未来は決めることができない。すべて自然のなりゆきに従うしかないのだという考えが根底にあったということになる。
しかし、西洋では、ルネッサンス以降、「ラプラスの悪魔」という言葉に代表されるように、今を知ることができれば未来を知ることができる。すなわち、今を決定することができれば未来も自分たちの意志で決定することができるのだという因果的決定論が持ち上がってくる。それを元に人類は作物を管理して安定供給する方法を考え、人口増加が始まり工業化へ向かい文明を発展させてきた。しかし、そこには様々な問題が出てきた。
そこには国家中心の社会構造が出来上がってきたけれども、本来の人間としての姿に立ち返るべきではないのかというのが著者の考えである。そしてその考え方の元になるものとして「対幻想」「共同幻想」というものを提示している。
「対幻想」とは、「夫婦」、「男女」、「親子」として向かい合う二人の間での思いやり。「共同幻想」とは、人間が二人以上の集団、たとえば、家族・社会・国家・民族など個人を超える集団の秩序やそれへの帰属を理解するための観念である。対幻想は著者が考え出した言葉のようであるが、共同幻想というのは、もともと、吉本隆明が提唱した観念だそうである。
しかし、最後まで著者の言いたいこととこのふたつの言葉の関連性というものがいまいちわからなった。
そして、タイトルに使われている、「脳」「森」についても、脳は人間、森は宇宙に例えているというのだが、そこのところも実はよくわからなかった。

そして、これからの日本はどういう方向に向かうべきかという結論として、「共生進化」というものを前提として「自給遊園」という文化的な自給自足の社会を作ろうというのである。
「共生進化」とは互いに利益を与えながら進化(繁栄)をすることであるが、これは自然界の生き物が互いに利益を与えあって生きている姿、例えば、ミツバチと花は蜂蜜を与える代わりに受粉を助ける。そういうことに倣って人と人、自然と人が共存した生活様式を作り上げるというのである。
要は、現代的で文化的な要素を加えながら里山で自給自足の生活をすることなのである。なんだか壮大な物語としては結論がショボいような気がしてしまうのである・・。
ただ、その提案には共感ができる。僕の中にも1万3000年分の遺伝子があるらしく、こういった生活には憧れるのは確かなので、これでよしとしておこう。
しかし、みのもんたの自慢話のようにしか思えなかったのはやはり僕の知能の限界なのだろうか・・・。

この本で一番気になったのは「共同幻想」という言葉だった。調べてみると(相変わらずネットでだけの知識だが・・・)、吉本隆明が提唱したこの考えは、国家という概念を絶対的なものではなく、極端にいうと、人々の心が作り上げた幻想でしかないというものだ。この集団が存在しているのは人々の思い込みだというのである。
その元になっているのは夫婦や家族といった小さな血縁、それさえも血で縛られた幻想であるのだが、それがベースとなって国家という考えが出来上がる。
だから、形而上的でしかない考えに縛られることなく個人個人が自分自身の考えを持たねばならないというのが吉本隆明の考える人間像であるということのようだ。

これって、会社という組織では同じことが成り立つのだろうか。そこはお金をもらっているという主従関係がある以上、「会社幻想」という言葉なんかはありそうにない。まさしくこれこそ形而上と形而下が同じである。せめてできることと言えば、形而下のもっと下の方で後ろを向いて舌を出すことくらいなのだろうなと悲しくなるのである。



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