とんでもない、というか、もうはじめから分かっていた事実が昨日、5年後の2月24日に、公の報道として伝えられました。
このことを、ただ憤ったり嘆いたりしているだけではなく、もう許さない、容赦はしないという態度をはっきりと見せるべきです。
過ぎたことはもう元には戻せません。
けれども、この隠匿によって、実に多くの人たちが余計な被ばくをさせてしまったこと、生活の基盤すべてを奪い、家庭を壊したことについての責任を、きちんと取らせなければなりません。
↓以下、転載はじめ
「メルトダウン判断 3日後には可能だった」
【NHK NEWSWEB】2016年 2月24日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160224/k10010420291000.html
東京電力は、福島第一原子力発電所の事故発生から2か月経って、核燃料が溶け落ちる、メルトダウンが起きたことをようやく認め大きな批判を浴びましたが、
当時の社内のマニュアルでは、事故発生から3日後には、メルトダウンと判断できたことを明らかにし、事故時の広報の在り方が改めて問われそうです。
福島第一原発の事故では、1号機から3号機までの3基で、原子炉の核燃料が溶け落ちるメルトダウン=炉心溶融が起きましたが、
東京電力はメルトダウンとは明言せず、正式に認めたのは、発生から2か月後の5月でした。
これについて、東京電力はこれまで、「メルトダウンを判断する根拠がなかった」と説明していましたが、
事故を検証している、新潟県の技術委員会の申し入れを受けて調査した結果、
社内のマニュアルには、炉心損傷割合が5%を超えていれば、炉心溶融と判定すると明記されていたことが分かりました。
実際、事故発生から3日後の3月14日の朝には、センサーが回復した結果、
1号機で燃料損傷の割合が55%、3号機では30%に、それぞれ達していたことが分かっていて、
この時点でメルトダウンが起きた、と判断できたことになります。
東京電力は、事故後にマニュアルを見直し、現在は、核燃料の損傷が5%に達するより前の段階で、メルトダウンが起きたと判断して公表するとしていますが、
事故から5年近くたって、新たな問題点が明らかになったことで、当時の広報の在り方が改めて問われそうです。
メルトダウン認めるまでの経緯
今回の発表や、政府の事故調査・検証委員会の報告書などによりますと、
東京電力は、福島第一原発の事故発生から3日後の3月14日に、
核燃料の損傷の割合が、1号機で55%、3号機が30%に達していることを把握しました。
さらに、翌日の15日には、損傷の割合について、1号機で70%、2号機で30%、3号機で25%と公表しますが、
原子炉の核燃料が溶けているのではないか、という報道陣の質問に対して、
「炉心溶融」や「メルトダウン」とは明言せず、「炉心損傷」という表現を使います。
一方、当時の原子力安全・保安院は、事故発生の翌日の12日の午後の記者会見で、
「炉心溶融の可能性がある。炉心溶融がほぼ進んでいるのではないだろうか」と発言していました。
ところが、その日の夜の会見では担当者が代わり、
「炉心が破損しているということは、かなり高い確率だと思いますが、状況がどういうふうになっているかということは、現状では正確にはわからない」と、内容が大きく変わります。
さらに翌月の4月には、当時の海江田経済産業大臣の指示で、ことばの定義付けを行ったうえで、
1号機から3号機の原子炉の状態について、「燃料ペレットの溶融」と、ふたたび表現を変えます。
その後、事故から2か月経った5月になって、東京電力は、解析の結果として、1号機から3号機まででメルトダウンが起きていたことを、正式に認めました。
社員「炉心溶融 なるべく使わないようにしていた」
メルトダウン=炉心溶融を巡っては、東京電力の社員が、政府の事故調査・検証委員会の聞き取りに対し、
「炉心溶融」ということばを使うことに、消極的だった当時の状況を証言しています。
公開された証言の記録によりますと、事故当時、東京電力の本店で、原子炉内の状態の解析を担当していた社員は、
事故から1か月近くたった4月上旬の時点の認識として、
「1号機については、水位は燃料の半分ほどしか無かったため、上半分は完全に溶けているであろうと考えていた」と述べ、
核燃料の一部が溶け落ちていた、と見ていたことを明らかにしています。
そのうえで、
「この頃の当社としては、広報などの場面で、炉心溶融ということばをなるべく使わないようにしていた、と記憶している」
「炉心溶融ということばは、正確な定義があるわけではないので、誤解を与えるおそれがあるから使わない、と言った考えを聞いた覚えがある」と証言しています。
福島・楢葉町の住民「憤りを感じる」
原発事故の避難指示が、去年9月に解除され、住民の帰還が始まっている福島県楢葉町の住民が暮らす、いわき市にある仮設住宅では、東京電力に対する憤りや不安の声が聞かれました。
今も、仮設住宅で避難生活を続けている83歳の男性は、
「東京電力はきちんと謝罪をしたのか。憤りを感じます」と話していました。
また、72歳の女性は、
「メルトダウンしたと、本当に分からなかったのか、それとも隠していたのか。
今ごろ言われても気分がよくない」と話していました。
仮設住宅の自治会長を務める箱崎豊さんは、
「楢葉町民が、安全だというお墨付きのもとに帰ろうとしているときに、今さらという感じで腹立たしく思う。
残念極まりない。企業体質が改めて問われる事態だ」と話していました。
福島・大熊町長「発表が遅れた真意は」
メルトダウンを巡る東京電力の対応について、福島第一原発が立地し、現在も全町民が避難を続ける大熊町の渡辺利綱町長は、
「なぜ発表が遅れたのか、率直に考えて疑問に思う。
単純なミスとは考えられないし、発表までにだいぶ時間がかかっているので、そのあたりの真意も知りたい。
最初からメルトダウンと発表されていれば、町民などの反応も違ったと思う。
信頼を築く上でも、正確な情報を迅速に伝えてもらうのが大事なので、引き続き対応を求めていきたい」と話していました。
福島県知事「極めて遺憾」
東京電力の、メルトダウンを巡る通報などの対応について、福島県の内堀知事は、
「3月14日の時点で、『炉心溶融』という重要な事象が通報されなかったことは、極めて遺憾だ。
今後、迅速で正確な通報や連絡が徹底されるよう、改めて強く求めたい」というコメントを出しました。
新潟県知事「隠蔽の背景など明らかに」
新潟県の泉田裕彦知事は、
「事故後、5年もの間、このような重要な事実を公表せず、原発の安全対策の検証を続けている県の技術委員会に対しても真摯(しんし)に対応して来なかったことは極めて遺憾。
メルトダウンを隠蔽した背景などについて、今後の調査で、真実を明らかにしてほしい」というコメントを発表しました。
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この記事を教えてくださったのは、フェイスブック友の長谷川宏氏。
記事と共に掲載されていた、東京電力福島第一原子力発電所の事故当時の、長谷川氏ご自身の体験を、ここに掲載されていただきます。
2011年3月14日の昼頃、福島3号機のすさまじい爆発映像を、TVで見た私は、
14日の午後には東名高速道路を西へ逃げ、14日夜は愛知県のホテルに泊まった。
翌15日朝、4号機建屋も、爆発で大きく損傷したことをTVのニュースで見て、
しばらく神奈川の自宅には戻らない方がいいと判断し、さらに西へ向かった。
後に、15日には、首都圏を放射能雲(プルーム)が襲い、新宿でも毎時0.8マイクロシーベルトを記録したこと、
3月21日~23日に、首都圏に降った雨で、東京にも1平方m当たり1万ベクレル以上の放射性セシウムと、
8万ベクレル以上の放射性ヨウ素が降り注いだことを、データから知った。
この間、菊池誠(キクマコ)氏は、
「メルトダウンじゃないだす」とTwitterでつぶやき、
早野龍五氏は、
「福島と東京のあいだは250km以上離れていますので、心配無用です」
「20kmという政府の避難指示は、妥当です。
被曝は、風で運ばれる放射性物質によって引き起こされ、遠くなればなるほど放射能は薄まるので、東京にいる方が心配することはありません」とつぶやいた。
専門家なら、正しい判断をし、正しい情報を提供してくれるとは限らない、ということがわかる。
原発事故と福島をめぐる覚え書き
長谷川 宏
序章
2011年3月11日の東日本大震災と、それにともなう福島の原発事故から、2年余りが経った。
この前後から現在にかけて、見聞きし経験したことや考えたことを、この場をお借りして書きとめ、記録しておきたい。
第1部は、2013年4月に、福島県(南相馬市・浪江町)を訪問して、実際に見聞し、感じたことや考えたこと、
第2部は、原発事故以前・以後の、原発・放射能被ばく問題にまつわる個人的な経験と、私なりに考察したことを綴ったものである。
さまざまなことを知り、また、自分の目と耳で福島の現実を見聞きする中で、自分の感じ方、考え方が変わっていった部分もあり、互いに矛盾する記述もあるかも知れないが、
そのときどきの体験や、心に抱いた思いを、なるべくそのまま記録することにつとめた。*1
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*1 ニュース専修2013年4月号に掲載された拙稿「原発事故と復興のはざまで―福島県相馬市・南相馬市訪 問記」参照
URL:http://www.senshu-u.ac.jp/library/00_spdata/koho/nsweb/pdf/1304/nsweb_2013_04_008.pdf)も、併せてご一読いただければ幸いである。
第1部:避難・補償・除染・復興
―福島の被災地から見えてくるもの(福島県南相馬市・浪江町訪問記)
1. はじめに
2013年4月29・30日の両日、福島県の南相馬市と浪江町を訪れた。
南相馬市を訪れるのは、2月、3月に続き3度目である。
原発事故で、多くの市民が避難してしまい、生徒が激減して採算が苦しくなった学習塾の支援で、中学・高校生に英語を教えるのが、訪問の目的の一つであった。
大学の授業とは勝手が違い、中高生が興味をもてるように教えるにはどうすればいいのか、手探りの状態で、
本務をこなしながら、継続的な支援をすることのむずかしさも感じているが、
もしまた機会があって、自分が役に立てそうであれば、またボランティアに行きたいと考えている。
2. 南相馬市の学習塾
南相馬市のB先生が運営するこの学習塾は、震災前には100人以上の生徒がいたが、原発事故でほとんどの生徒が避難してしまった。
B先生は、一度は塾の閉鎖を決め、トラック4台分の教材を処分した。
しかし、K君という教え子に、「自分はB先生の下で勉強して大学に行きたい」 と言われ、
また教材を購入し直し、採算を度外視して、貯金を取り崩しながら、一人の教え子のために塾を続けられた。
K君は、2012年春、晴れて合格を果たし、今は首都圏の大学に通ってい る。
その後、避難していた生徒も、少しずつ戻ってきた。
生徒たちの様子を見ていると、この塾が、勉強だけでなく、B先生や他の生徒たちとの交流の場となり、
いろいろ不安や心配も感じているであろう子どもたちの、「心のオアシス」になっているようだった。
まるで、みんなの母親のように 一人ひとりの生徒を気遣い、言葉をかわすB先生のお人柄が、震災後、大きな役割を果たしていると感じた。
この塾を取り上げた、福島の民放テレビ局制作のドキュメンタリー番組が、全国ネットでも放送され、大きな反響を呼んだ。*2
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*2 テレビ朝日・テレメンタリー2013「“3.11”を忘れない 心の隙間を埋めて~南相馬の学習塾から~」2013年4月15日放送参照
URL:http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/
B先生は、東京電力に、原発事故のため処分し買い直した、教材費の補償を求めた。
これに対し東京電力からは、
「塾の閉鎖と再開には、B先生の意思が働いており、原発事故と直接の因果関係が認められないので、補償はできない」という返答があったという。
こんな言い逃れが通用するなら、個人の意思が一切働いていない原発事故被害など、むしろ少ないであろうから、
東京電力は、「舌先三寸」で責任を個人に押し付け、補償の義務から逃れられることになる。
原発事故を引き起こした当事者として、このような無責任な態度は、決して許されるものではない。
3. 南相馬市のガソリンスタンド
最初に相馬市と南相馬市を訪れた、2013年2月の経験を元に、ニュース専修4月号に、「原発事故と復興のはざまで―福島県相馬市・南相馬市訪問記」と題した一文を寄稿した。
この記事を読んでくださった、お子さんが石巻専修大学に通うWさんから、原発事故後の大変な体験や苦しい思いを、切々と綴ったお手紙が届いた。
連絡を取ったところ、4月30日にお会いして、車でご案内いただくことになった。
Wさんとご家族は、南相馬市(鹿島区)で、ガソリンスタンドを経営されている。
原発事故直後、 仙台に避難しようとした矢先、「営業してガソリンを販売してほしい」という要請が、国(資源エネルギー庁
)からあった。
ご家族のうち、2人は現地に残り、4人のお子さんの母親であるWさんは、毎日仙台から何時間もかけ、車で通って営業を続けられた。
震災直後、被災者の生命線であるガソリンの不足で、スタンドは長蛇の列、最後尾は7時間待ちであった。
Wさん家族は、休む間もなく仕事を続け、ご家族の一人は、長時間の立ち仕事で、関節を痛め手術を受けることになった。
また、タンクローリーの運転手が被ばくを恐れ、郡山までしか来てくれないので、
危険物取扱者免状をもつWさんが、別の運転手に同行し、何時間もかけ往復して、スタンドまでガソリンを運んだ。
その当時は、どの地域が放射線量が高い、という情報もないまま、何も知らずに飯舘村などを走って、何度も往復したという。
Wさんの住居とスタンドは、原発30km圏のすぐ外(30.4km)にあるため、30km圏内なら受けられるさまざまな補償が受けられない。
単純に距離で線引きすることの無意味さ、実際の被害や仕事・生活上の困難・不利益を十分考慮し、柔軟な対応をする必要を強く感じた。
4. 浪江町に入る
Wさん家族は、南相馬市より原発に近く、「警戒区域」として立ち入り禁止になっていた浪江町でも、ガソリンスタンドを営業されていた。
最近になって、必要と認められた場合は、立ち入りが許されるようになり、許可証をもつWさんの案内で、浪江町に入ることができた。
Wさんご家族が経営され現在は閉鎖中の浪江町のガソリンスタンドの前で。
「がんばろう浪江人」の落書きが見える。
浪江町は、最近まで立ち入りが許されなかったため、2年以上たった今も、まるで時計が止まったように、震災の爪痕がそのまま残っている。
海沿いには、津波で流された車や、陸に打ち上げられた船が、多数放置されたままである。
浪江町内には、地震で倒壊した多くの家屋・建物が、手つかずのまま残されている。
人気のない街並みや、新築されたが一度も利用されないままの市民施設、子どもたちのいなくなった幼稚園や学習塾など、
そこここで失ったものの大きさ・重さを、ひしひしと肌で感じさせられた。
浪江町の海沿いに津波で打ち上げられたまま放置された船。
慰霊のためにつくられた場所で手を合わせるBさんとWさん。
津波で打ち上げられた船と津波に流された車が見える。
地震で倒壊したままの浪江町の造り酒屋。
新築されたが利用されないままの立派な市民施設。
ここにも「原発マネー」が投じられたのだろうか?
新築の幼稚園の園舎も使われることはない。
持参した線量計で、放射線量を計測しながら、浪江町内を回った。
海沿いは、原発から至近距離の割には、放射線量が低く、原発から約3kmまで近づいても、毎時0.2マイクロシーベルト台であった。
一方、車で10分ほど内陸へ入っただけで、最高毎時5マイクロシーベルト台 (海沿いの20倍以上)まで線量が上がった。
同じ浪江町内の、数kmしか離れていない所で、線量が大きく異なることに驚き、距離による線引きの無意味さを、あらためて痛感した。
原発からわずか3km の地点でも、海沿いは意外に放射線量が低い(毎時0.2マイクロシーベルト台)。
内陸に少し入っただけで、放射線量が文字通り「桁違い」に上がる(毎時4マイクロ シーベルト台)。
津波の被害を受けた建物の向こうに、新たに建設されたが利用されないままの常磐自動車道の区間が見える。
浪江町の内陸部では、車の中で測っても毎時5マイクロシーベルト以上を記録した。
飯舘村を通過するバスの中で。
放射線量は毎時2マイクロシーベルト台後半まで上がっている。
5. おわりに―避難・補償・除染・復興をめぐって
福島市・南相馬市間をバスで往復する途中、 飯舘村を通過した。
やはり線量が高く、バスの中でも、最高毎時2マイクロシーベルト台後半まで上がった。
除染をしているせいか、村役場の前では、毎時1マイクロシーベルト台まで線量が下がる。
現在、国の方針として、「避難指示解除準備区域」に指定された地域については、除染等を行って、住民を帰還させる方針が示されており、飯舘村の一部もこれに含まれている。
しかし、飯舘村に戻ったとしても、村民は、除染された村役場の近くだけで暮らすわけではない。
周りを高線量の森に囲まれたこの村で、実効性の低い除染に巨額の費用をかけるよりも、
そのお金を、避難している村民の生活再建に役立てた方がいいのではないか、という疑問を抱かずにはいられなかった。
浪江町も、海沿いは低線量だが、津波の心配があり、内陸部は高線量で、除染しても住むのはむずかしいと思われる。
ご家族のお住まいだった家が、浪江町の立ち入り禁止区域内にあるWさんも、
「住めないなら住めないと、はっきり言ってもらった方がいい」とおっしゃっていた。
住んでもそれほど心配のない地域、除染すれば一定の効果が見込める地域、避難すべきだと考えられる地域を、どのように「線引き」するか、むずかしい判断が迫られている。
距離による線引きが無意味なことは、再三指摘した通りである。
と言っても、その地点の放射線量だけでは単純に決められず、その周辺地域一帯の放射線量や、生活に必要な商店やインフラの状況など、 さまざまな要因を考慮しなければならない。
その地域に住んで生活する選択をした人と、避難する決断をした人の、それぞれの事情・状況に十分配慮し、その判断をできる限り尊重すべきであろう。
そして、生活に必要な施設や、インフラの整備と、不公平感の少ない補償の体制をどう構築するか考えることが、
政府や被災地の関係者だけでなく、私たち国民全員に課せられた課題ではないだろうか。
第2部につづく
このことを、ただ憤ったり嘆いたりしているだけではなく、もう許さない、容赦はしないという態度をはっきりと見せるべきです。
過ぎたことはもう元には戻せません。
けれども、この隠匿によって、実に多くの人たちが余計な被ばくをさせてしまったこと、生活の基盤すべてを奪い、家庭を壊したことについての責任を、きちんと取らせなければなりません。
↓以下、転載はじめ
「メルトダウン判断 3日後には可能だった」
【NHK NEWSWEB】2016年 2月24日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160224/k10010420291000.html
東京電力は、福島第一原子力発電所の事故発生から2か月経って、核燃料が溶け落ちる、メルトダウンが起きたことをようやく認め大きな批判を浴びましたが、
当時の社内のマニュアルでは、事故発生から3日後には、メルトダウンと判断できたことを明らかにし、事故時の広報の在り方が改めて問われそうです。
福島第一原発の事故では、1号機から3号機までの3基で、原子炉の核燃料が溶け落ちるメルトダウン=炉心溶融が起きましたが、
東京電力はメルトダウンとは明言せず、正式に認めたのは、発生から2か月後の5月でした。
これについて、東京電力はこれまで、「メルトダウンを判断する根拠がなかった」と説明していましたが、
事故を検証している、新潟県の技術委員会の申し入れを受けて調査した結果、
社内のマニュアルには、炉心損傷割合が5%を超えていれば、炉心溶融と判定すると明記されていたことが分かりました。
実際、事故発生から3日後の3月14日の朝には、センサーが回復した結果、
1号機で燃料損傷の割合が55%、3号機では30%に、それぞれ達していたことが分かっていて、
この時点でメルトダウンが起きた、と判断できたことになります。
東京電力は、事故後にマニュアルを見直し、現在は、核燃料の損傷が5%に達するより前の段階で、メルトダウンが起きたと判断して公表するとしていますが、
事故から5年近くたって、新たな問題点が明らかになったことで、当時の広報の在り方が改めて問われそうです。
メルトダウン認めるまでの経緯
今回の発表や、政府の事故調査・検証委員会の報告書などによりますと、
東京電力は、福島第一原発の事故発生から3日後の3月14日に、
核燃料の損傷の割合が、1号機で55%、3号機が30%に達していることを把握しました。
さらに、翌日の15日には、損傷の割合について、1号機で70%、2号機で30%、3号機で25%と公表しますが、
原子炉の核燃料が溶けているのではないか、という報道陣の質問に対して、
「炉心溶融」や「メルトダウン」とは明言せず、「炉心損傷」という表現を使います。
一方、当時の原子力安全・保安院は、事故発生の翌日の12日の午後の記者会見で、
「炉心溶融の可能性がある。炉心溶融がほぼ進んでいるのではないだろうか」と発言していました。
ところが、その日の夜の会見では担当者が代わり、
「炉心が破損しているということは、かなり高い確率だと思いますが、状況がどういうふうになっているかということは、現状では正確にはわからない」と、内容が大きく変わります。
さらに翌月の4月には、当時の海江田経済産業大臣の指示で、ことばの定義付けを行ったうえで、
1号機から3号機の原子炉の状態について、「燃料ペレットの溶融」と、ふたたび表現を変えます。
その後、事故から2か月経った5月になって、東京電力は、解析の結果として、1号機から3号機まででメルトダウンが起きていたことを、正式に認めました。
社員「炉心溶融 なるべく使わないようにしていた」
メルトダウン=炉心溶融を巡っては、東京電力の社員が、政府の事故調査・検証委員会の聞き取りに対し、
「炉心溶融」ということばを使うことに、消極的だった当時の状況を証言しています。
公開された証言の記録によりますと、事故当時、東京電力の本店で、原子炉内の状態の解析を担当していた社員は、
事故から1か月近くたった4月上旬の時点の認識として、
「1号機については、水位は燃料の半分ほどしか無かったため、上半分は完全に溶けているであろうと考えていた」と述べ、
核燃料の一部が溶け落ちていた、と見ていたことを明らかにしています。
そのうえで、
「この頃の当社としては、広報などの場面で、炉心溶融ということばをなるべく使わないようにしていた、と記憶している」
「炉心溶融ということばは、正確な定義があるわけではないので、誤解を与えるおそれがあるから使わない、と言った考えを聞いた覚えがある」と証言しています。
福島・楢葉町の住民「憤りを感じる」
原発事故の避難指示が、去年9月に解除され、住民の帰還が始まっている福島県楢葉町の住民が暮らす、いわき市にある仮設住宅では、東京電力に対する憤りや不安の声が聞かれました。
今も、仮設住宅で避難生活を続けている83歳の男性は、
「東京電力はきちんと謝罪をしたのか。憤りを感じます」と話していました。
また、72歳の女性は、
「メルトダウンしたと、本当に分からなかったのか、それとも隠していたのか。
今ごろ言われても気分がよくない」と話していました。
仮設住宅の自治会長を務める箱崎豊さんは、
「楢葉町民が、安全だというお墨付きのもとに帰ろうとしているときに、今さらという感じで腹立たしく思う。
残念極まりない。企業体質が改めて問われる事態だ」と話していました。
福島・大熊町長「発表が遅れた真意は」
メルトダウンを巡る東京電力の対応について、福島第一原発が立地し、現在も全町民が避難を続ける大熊町の渡辺利綱町長は、
「なぜ発表が遅れたのか、率直に考えて疑問に思う。
単純なミスとは考えられないし、発表までにだいぶ時間がかかっているので、そのあたりの真意も知りたい。
最初からメルトダウンと発表されていれば、町民などの反応も違ったと思う。
信頼を築く上でも、正確な情報を迅速に伝えてもらうのが大事なので、引き続き対応を求めていきたい」と話していました。
福島県知事「極めて遺憾」
東京電力の、メルトダウンを巡る通報などの対応について、福島県の内堀知事は、
「3月14日の時点で、『炉心溶融』という重要な事象が通報されなかったことは、極めて遺憾だ。
今後、迅速で正確な通報や連絡が徹底されるよう、改めて強く求めたい」というコメントを出しました。
新潟県知事「隠蔽の背景など明らかに」
新潟県の泉田裕彦知事は、
「事故後、5年もの間、このような重要な事実を公表せず、原発の安全対策の検証を続けている県の技術委員会に対しても真摯(しんし)に対応して来なかったことは極めて遺憾。
メルトダウンを隠蔽した背景などについて、今後の調査で、真実を明らかにしてほしい」というコメントを発表しました。
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この記事を教えてくださったのは、フェイスブック友の長谷川宏氏。
記事と共に掲載されていた、東京電力福島第一原子力発電所の事故当時の、長谷川氏ご自身の体験を、ここに掲載されていただきます。
2011年3月14日の昼頃、福島3号機のすさまじい爆発映像を、TVで見た私は、
14日の午後には東名高速道路を西へ逃げ、14日夜は愛知県のホテルに泊まった。
翌15日朝、4号機建屋も、爆発で大きく損傷したことをTVのニュースで見て、
しばらく神奈川の自宅には戻らない方がいいと判断し、さらに西へ向かった。
後に、15日には、首都圏を放射能雲(プルーム)が襲い、新宿でも毎時0.8マイクロシーベルトを記録したこと、
3月21日~23日に、首都圏に降った雨で、東京にも1平方m当たり1万ベクレル以上の放射性セシウムと、
8万ベクレル以上の放射性ヨウ素が降り注いだことを、データから知った。
この間、菊池誠(キクマコ)氏は、
「メルトダウンじゃないだす」とTwitterでつぶやき、
早野龍五氏は、
「福島と東京のあいだは250km以上離れていますので、心配無用です」
「20kmという政府の避難指示は、妥当です。
被曝は、風で運ばれる放射性物質によって引き起こされ、遠くなればなるほど放射能は薄まるので、東京にいる方が心配することはありません」とつぶやいた。
専門家なら、正しい判断をし、正しい情報を提供してくれるとは限らない、ということがわかる。
原発事故と福島をめぐる覚え書き
長谷川 宏
序章
2011年3月11日の東日本大震災と、それにともなう福島の原発事故から、2年余りが経った。
この前後から現在にかけて、見聞きし経験したことや考えたことを、この場をお借りして書きとめ、記録しておきたい。
第1部は、2013年4月に、福島県(南相馬市・浪江町)を訪問して、実際に見聞し、感じたことや考えたこと、
第2部は、原発事故以前・以後の、原発・放射能被ばく問題にまつわる個人的な経験と、私なりに考察したことを綴ったものである。
さまざまなことを知り、また、自分の目と耳で福島の現実を見聞きする中で、自分の感じ方、考え方が変わっていった部分もあり、互いに矛盾する記述もあるかも知れないが、
そのときどきの体験や、心に抱いた思いを、なるべくそのまま記録することにつとめた。*1
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*1 ニュース専修2013年4月号に掲載された拙稿「原発事故と復興のはざまで―福島県相馬市・南相馬市訪 問記」参照
URL:http://www.senshu-u.ac.jp/library/00_spdata/koho/nsweb/pdf/1304/nsweb_2013_04_008.pdf)も、併せてご一読いただければ幸いである。
第1部:避難・補償・除染・復興
―福島の被災地から見えてくるもの(福島県南相馬市・浪江町訪問記)
1. はじめに
2013年4月29・30日の両日、福島県の南相馬市と浪江町を訪れた。
南相馬市を訪れるのは、2月、3月に続き3度目である。
原発事故で、多くの市民が避難してしまい、生徒が激減して採算が苦しくなった学習塾の支援で、中学・高校生に英語を教えるのが、訪問の目的の一つであった。
大学の授業とは勝手が違い、中高生が興味をもてるように教えるにはどうすればいいのか、手探りの状態で、
本務をこなしながら、継続的な支援をすることのむずかしさも感じているが、
もしまた機会があって、自分が役に立てそうであれば、またボランティアに行きたいと考えている。
2. 南相馬市の学習塾
南相馬市のB先生が運営するこの学習塾は、震災前には100人以上の生徒がいたが、原発事故でほとんどの生徒が避難してしまった。
B先生は、一度は塾の閉鎖を決め、トラック4台分の教材を処分した。
しかし、K君という教え子に、「自分はB先生の下で勉強して大学に行きたい」 と言われ、
また教材を購入し直し、採算を度外視して、貯金を取り崩しながら、一人の教え子のために塾を続けられた。
K君は、2012年春、晴れて合格を果たし、今は首都圏の大学に通ってい る。
その後、避難していた生徒も、少しずつ戻ってきた。
生徒たちの様子を見ていると、この塾が、勉強だけでなく、B先生や他の生徒たちとの交流の場となり、
いろいろ不安や心配も感じているであろう子どもたちの、「心のオアシス」になっているようだった。
まるで、みんなの母親のように 一人ひとりの生徒を気遣い、言葉をかわすB先生のお人柄が、震災後、大きな役割を果たしていると感じた。
この塾を取り上げた、福島の民放テレビ局制作のドキュメンタリー番組が、全国ネットでも放送され、大きな反響を呼んだ。*2
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*2 テレビ朝日・テレメンタリー2013「“3.11”を忘れない 心の隙間を埋めて~南相馬の学習塾から~」2013年4月15日放送参照
URL:http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/
B先生は、東京電力に、原発事故のため処分し買い直した、教材費の補償を求めた。
これに対し東京電力からは、
「塾の閉鎖と再開には、B先生の意思が働いており、原発事故と直接の因果関係が認められないので、補償はできない」という返答があったという。
こんな言い逃れが通用するなら、個人の意思が一切働いていない原発事故被害など、むしろ少ないであろうから、
東京電力は、「舌先三寸」で責任を個人に押し付け、補償の義務から逃れられることになる。
原発事故を引き起こした当事者として、このような無責任な態度は、決して許されるものではない。
3. 南相馬市のガソリンスタンド
最初に相馬市と南相馬市を訪れた、2013年2月の経験を元に、ニュース専修4月号に、「原発事故と復興のはざまで―福島県相馬市・南相馬市訪問記」と題した一文を寄稿した。
この記事を読んでくださった、お子さんが石巻専修大学に通うWさんから、原発事故後の大変な体験や苦しい思いを、切々と綴ったお手紙が届いた。
連絡を取ったところ、4月30日にお会いして、車でご案内いただくことになった。
Wさんとご家族は、南相馬市(鹿島区)で、ガソリンスタンドを経営されている。
原発事故直後、 仙台に避難しようとした矢先、「営業してガソリンを販売してほしい」という要請が、国(資源エネルギー庁
)からあった。
ご家族のうち、2人は現地に残り、4人のお子さんの母親であるWさんは、毎日仙台から何時間もかけ、車で通って営業を続けられた。
震災直後、被災者の生命線であるガソリンの不足で、スタンドは長蛇の列、最後尾は7時間待ちであった。
Wさん家族は、休む間もなく仕事を続け、ご家族の一人は、長時間の立ち仕事で、関節を痛め手術を受けることになった。
また、タンクローリーの運転手が被ばくを恐れ、郡山までしか来てくれないので、
危険物取扱者免状をもつWさんが、別の運転手に同行し、何時間もかけ往復して、スタンドまでガソリンを運んだ。
その当時は、どの地域が放射線量が高い、という情報もないまま、何も知らずに飯舘村などを走って、何度も往復したという。
Wさんの住居とスタンドは、原発30km圏のすぐ外(30.4km)にあるため、30km圏内なら受けられるさまざまな補償が受けられない。
単純に距離で線引きすることの無意味さ、実際の被害や仕事・生活上の困難・不利益を十分考慮し、柔軟な対応をする必要を強く感じた。
4. 浪江町に入る
Wさん家族は、南相馬市より原発に近く、「警戒区域」として立ち入り禁止になっていた浪江町でも、ガソリンスタンドを営業されていた。
最近になって、必要と認められた場合は、立ち入りが許されるようになり、許可証をもつWさんの案内で、浪江町に入ることができた。
Wさんご家族が経営され現在は閉鎖中の浪江町のガソリンスタンドの前で。
「がんばろう浪江人」の落書きが見える。
浪江町は、最近まで立ち入りが許されなかったため、2年以上たった今も、まるで時計が止まったように、震災の爪痕がそのまま残っている。
海沿いには、津波で流された車や、陸に打ち上げられた船が、多数放置されたままである。
浪江町内には、地震で倒壊した多くの家屋・建物が、手つかずのまま残されている。
人気のない街並みや、新築されたが一度も利用されないままの市民施設、子どもたちのいなくなった幼稚園や学習塾など、
そこここで失ったものの大きさ・重さを、ひしひしと肌で感じさせられた。
浪江町の海沿いに津波で打ち上げられたまま放置された船。
慰霊のためにつくられた場所で手を合わせるBさんとWさん。
津波で打ち上げられた船と津波に流された車が見える。
地震で倒壊したままの浪江町の造り酒屋。
新築されたが利用されないままの立派な市民施設。
ここにも「原発マネー」が投じられたのだろうか?
新築の幼稚園の園舎も使われることはない。
持参した線量計で、放射線量を計測しながら、浪江町内を回った。
海沿いは、原発から至近距離の割には、放射線量が低く、原発から約3kmまで近づいても、毎時0.2マイクロシーベルト台であった。
一方、車で10分ほど内陸へ入っただけで、最高毎時5マイクロシーベルト台 (海沿いの20倍以上)まで線量が上がった。
同じ浪江町内の、数kmしか離れていない所で、線量が大きく異なることに驚き、距離による線引きの無意味さを、あらためて痛感した。
原発からわずか3km の地点でも、海沿いは意外に放射線量が低い(毎時0.2マイクロシーベルト台)。
内陸に少し入っただけで、放射線量が文字通り「桁違い」に上がる(毎時4マイクロ シーベルト台)。
津波の被害を受けた建物の向こうに、新たに建設されたが利用されないままの常磐自動車道の区間が見える。
浪江町の内陸部では、車の中で測っても毎時5マイクロシーベルト以上を記録した。
飯舘村を通過するバスの中で。
放射線量は毎時2マイクロシーベルト台後半まで上がっている。
5. おわりに―避難・補償・除染・復興をめぐって
福島市・南相馬市間をバスで往復する途中、 飯舘村を通過した。
やはり線量が高く、バスの中でも、最高毎時2マイクロシーベルト台後半まで上がった。
除染をしているせいか、村役場の前では、毎時1マイクロシーベルト台まで線量が下がる。
現在、国の方針として、「避難指示解除準備区域」に指定された地域については、除染等を行って、住民を帰還させる方針が示されており、飯舘村の一部もこれに含まれている。
しかし、飯舘村に戻ったとしても、村民は、除染された村役場の近くだけで暮らすわけではない。
周りを高線量の森に囲まれたこの村で、実効性の低い除染に巨額の費用をかけるよりも、
そのお金を、避難している村民の生活再建に役立てた方がいいのではないか、という疑問を抱かずにはいられなかった。
浪江町も、海沿いは低線量だが、津波の心配があり、内陸部は高線量で、除染しても住むのはむずかしいと思われる。
ご家族のお住まいだった家が、浪江町の立ち入り禁止区域内にあるWさんも、
「住めないなら住めないと、はっきり言ってもらった方がいい」とおっしゃっていた。
住んでもそれほど心配のない地域、除染すれば一定の効果が見込める地域、避難すべきだと考えられる地域を、どのように「線引き」するか、むずかしい判断が迫られている。
距離による線引きが無意味なことは、再三指摘した通りである。
と言っても、その地点の放射線量だけでは単純に決められず、その周辺地域一帯の放射線量や、生活に必要な商店やインフラの状況など、 さまざまな要因を考慮しなければならない。
その地域に住んで生活する選択をした人と、避難する決断をした人の、それぞれの事情・状況に十分配慮し、その判断をできる限り尊重すべきであろう。
そして、生活に必要な施設や、インフラの整備と、不公平感の少ない補償の体制をどう構築するか考えることが、
政府や被災地の関係者だけでなく、私たち国民全員に課せられた課題ではないだろうか。
第2部につづく