先日逝去された三笠宮さまが残されたお言葉の数々を、フェイスブック友のHodaka Tateyamaさんが、紹介してくださっていました。
読んでいくうちに、三笠宮さまの勇気と信念に心を打たれ、これはみなさんにも知っていただきたいと思い、紹介させていただきます。
↓以下、転載はじめ



あらゆる面で、真実の証言です。
わたしも以前、別件の取材で出会った、元日本兵から聞きました。
「婦女子を縦に並べ、銃剣で、一度に何人も突き刺す訓練を、肝試しとの名目でさせられた」と。
その老人は、中国に出征していた人でした。
取材は、自宅で行いましたので、彼はまず、妻を居間から下がらせ、泣きながら言ったのです。
「上官からの命令で、逆らえなかった。
やらなかったら、半殺しの目に遭った。
今、初めて告白したんだ」と。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは、帝国陸軍が初年兵にやらせていた、「刺殺訓練」というものです。
事実、第59師団長の、藤田茂中将の証言として、以下のようなものが残っています。
「兵を戦場に慣らせるためには、殺人が早い方法である。
即ち、度胸試しである。
これには、捕虜を使用すればよい。
なるべく早く、この機会を作って、初年兵を戦場に慣らさせ、強くしなければならない」
「これには、銃殺より刺殺が効果的である」
(新井利男・藤原彰「侵略の証言ーー中国における日本人戦犯自筆供述書」)
日本が再び「鬼畜」の道を歩まぬよう、「知る」人々は、真実を語るべきです。
命あるうちに。
偽善者の企みを、墜えさせるために。
◆週刊新潮の「三笠宮殿下」特集がすごい件
「罪もない中国の人民に対して犯した、いまわしい暴虐の数々」
【NAVERまとめ】
http://matome.naver.jp/m/odai/2144971574807356901










・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
正直、背中を押していただいたような気持ちになりました。
縁(えにし)があるような気がしてなりません。
日本のいわゆる「古代史」が、狭野尊の実際の史実と違うと、肌で感じておられた。
「その当時」に、おられたのかもしれません。
わたしはこの方に、人間としての深い愛情と、敬意を感じるからです。
↑以上、転載おわり
三笠宮さまが逝去 昭和天皇の末弟、100歳
【日本経済新聞】2016年10月27日
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG16HEL_X21C16A0MM0000/
昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父、三笠宮崇仁(たかひと)さまが、27日午前8時34分、心不全のため、入院先の聖路加国際病院(東京・中央)で亡くなられた。
100歳だった。
宮内庁によると、記録が残るなかで、100歳を超えた皇族は三笠宮さまだけで、史上最長寿だった。
同庁は、葬儀の日取りなどの検討を始めた。
三笠宮さまは、5月16日に、急性肺炎と診断され、同病院に入院。
天皇、皇后両陛下は6月30日、三笠宮さまを見舞われた。
三笠宮さまの症状は、いったん落ち着いたものの、心臓の機能に低下がみられ、治療が続いていた。
宮内庁によると、27日午前7時40分すぎに、容体が急変し、妻の百合子さま(93)が最期をみとられたという。
天皇、皇后両陛下は7日間、喪に服される。
皇位継承順位は5位。
三笠宮さまの逝去で、天皇と皇族からなる皇室は19人に、皇位継承資格者は4人に減った。
三笠宮さまは、第1次世界大戦さなかの1915年(大正4年)12月2日、大正天皇の第4皇子として誕生。
学習院中等科を経て、陸軍士官学校、陸軍大学校に進み、大本営陸軍参謀として勤務されたが、
戦時中の陸軍の戦争指導には、一貫して、批判的な姿勢を示された。
戦後は、歴史学者の道を歩み、東大文学部研究生として、古代オリエント史を専攻。
海外の史跡調査など、精力的に活動された。
54年には、日本オリエント学会を設立し、会長に就任。
翌年から、東京女子大や青山学院大の講師として、20年余り教壇に立たれた。
テレビ、ラジオの市民講座にも出演し、率直な発言と気さくな人柄で、親しまれた。
また、戦後間もないころに、昭和天皇の生前退位や、女帝を容認する意見を表明。
神話に基づく紀元節(現在の建国記念の日)復活に反対するなど、歴史学者らしい、合理的な考え方を持たれていた。
41年に、高木正得子爵次女の、百合子さまと結婚。
寛仁(ともひと)さま、桂宮宜仁(よしひと)さま、高円宮憲仁(のりひと)さまと、近衛忠煇・日本赤十字社長夫人の長女●子(●はうかんむりに心に用、やすこ)さん、千宗室氏夫人の次女容子(まさこ)さんの、3男2女に恵まれた。
しかし、高円宮さまは、2002年11月に47歳の若さで急逝。
12年6月には寛仁さま、14年6月にも桂宮さまが、共に66歳で亡くなられ、お子さま方に相次いで先立たれた。
三笠宮さまは、01年9月に、軽度の慢性硬膜下血腫で手術を受けられ、回復。
08年6月には、心臓の弁がうまく閉じずに血液が逆流する、持病の「僧帽弁閉鎖不全」による急性左心不全で、入院された。
96歳だった12年7月には、僧帽弁閉鎖不全の手術を受け、順調に回復されていた。
15年12月には、100歳(百寿)を迎えられた。
読んでいくうちに、三笠宮さまの勇気と信念に心を打たれ、これはみなさんにも知っていただきたいと思い、紹介させていただきます。
↓以下、転載はじめ



あらゆる面で、真実の証言です。
わたしも以前、別件の取材で出会った、元日本兵から聞きました。
「婦女子を縦に並べ、銃剣で、一度に何人も突き刺す訓練を、肝試しとの名目でさせられた」と。
その老人は、中国に出征していた人でした。
取材は、自宅で行いましたので、彼はまず、妻を居間から下がらせ、泣きながら言ったのです。
「上官からの命令で、逆らえなかった。
やらなかったら、半殺しの目に遭った。
今、初めて告白したんだ」と。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは、帝国陸軍が初年兵にやらせていた、「刺殺訓練」というものです。
事実、第59師団長の、藤田茂中将の証言として、以下のようなものが残っています。
「兵を戦場に慣らせるためには、殺人が早い方法である。
即ち、度胸試しである。
これには、捕虜を使用すればよい。
なるべく早く、この機会を作って、初年兵を戦場に慣らさせ、強くしなければならない」
「これには、銃殺より刺殺が効果的である」
(新井利男・藤原彰「侵略の証言ーー中国における日本人戦犯自筆供述書」)
日本が再び「鬼畜」の道を歩まぬよう、「知る」人々は、真実を語るべきです。
命あるうちに。
偽善者の企みを、墜えさせるために。
◆週刊新潮の「三笠宮殿下」特集がすごい件
「罪もない中国の人民に対して犯した、いまわしい暴虐の数々」
【NAVERまとめ】
http://matome.naver.jp/m/odai/2144971574807356901










・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
正直、背中を押していただいたような気持ちになりました。
縁(えにし)があるような気がしてなりません。
日本のいわゆる「古代史」が、狭野尊の実際の史実と違うと、肌で感じておられた。
「その当時」に、おられたのかもしれません。
わたしはこの方に、人間としての深い愛情と、敬意を感じるからです。
↑以上、転載おわり
三笠宮さまが逝去 昭和天皇の末弟、100歳
【日本経済新聞】2016年10月27日
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG16HEL_X21C16A0MM0000/
昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父、三笠宮崇仁(たかひと)さまが、27日午前8時34分、心不全のため、入院先の聖路加国際病院(東京・中央)で亡くなられた。
100歳だった。
宮内庁によると、記録が残るなかで、100歳を超えた皇族は三笠宮さまだけで、史上最長寿だった。
同庁は、葬儀の日取りなどの検討を始めた。
三笠宮さまは、5月16日に、急性肺炎と診断され、同病院に入院。
天皇、皇后両陛下は6月30日、三笠宮さまを見舞われた。
三笠宮さまの症状は、いったん落ち着いたものの、心臓の機能に低下がみられ、治療が続いていた。
宮内庁によると、27日午前7時40分すぎに、容体が急変し、妻の百合子さま(93)が最期をみとられたという。
天皇、皇后両陛下は7日間、喪に服される。
皇位継承順位は5位。
三笠宮さまの逝去で、天皇と皇族からなる皇室は19人に、皇位継承資格者は4人に減った。
三笠宮さまは、第1次世界大戦さなかの1915年(大正4年)12月2日、大正天皇の第4皇子として誕生。
学習院中等科を経て、陸軍士官学校、陸軍大学校に進み、大本営陸軍参謀として勤務されたが、
戦時中の陸軍の戦争指導には、一貫して、批判的な姿勢を示された。
戦後は、歴史学者の道を歩み、東大文学部研究生として、古代オリエント史を専攻。
海外の史跡調査など、精力的に活動された。
54年には、日本オリエント学会を設立し、会長に就任。
翌年から、東京女子大や青山学院大の講師として、20年余り教壇に立たれた。
テレビ、ラジオの市民講座にも出演し、率直な発言と気さくな人柄で、親しまれた。
また、戦後間もないころに、昭和天皇の生前退位や、女帝を容認する意見を表明。
神話に基づく紀元節(現在の建国記念の日)復活に反対するなど、歴史学者らしい、合理的な考え方を持たれていた。
41年に、高木正得子爵次女の、百合子さまと結婚。
寛仁(ともひと)さま、桂宮宜仁(よしひと)さま、高円宮憲仁(のりひと)さまと、近衛忠煇・日本赤十字社長夫人の長女●子(●はうかんむりに心に用、やすこ)さん、千宗室氏夫人の次女容子(まさこ)さんの、3男2女に恵まれた。
しかし、高円宮さまは、2002年11月に47歳の若さで急逝。
12年6月には寛仁さま、14年6月にも桂宮さまが、共に66歳で亡くなられ、お子さま方に相次いで先立たれた。
三笠宮さまは、01年9月に、軽度の慢性硬膜下血腫で手術を受けられ、回復。
08年6月には、心臓の弁がうまく閉じずに血液が逆流する、持病の「僧帽弁閉鎖不全」による急性左心不全で、入院された。
96歳だった12年7月には、僧帽弁閉鎖不全の手術を受け、順調に回復されていた。
15年12月には、100歳(百寿)を迎えられた。