ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

戦争の罪悪性を説き続けられた三笠宮さま「虐殺とは惨たらしく殺すこと。つまり人数は関係ありません」

2016年10月28日 | 日本とわたし
先日逝去された三笠宮さまが残されたお言葉の数々を、フェイスブック友のHodaka Tateyamaさんが、紹介してくださっていました。
読んでいくうちに、三笠宮さまの勇気と信念に心を打たれ、これはみなさんにも知っていただきたいと思い、紹介させていただきます。

↓以下、転載はじめ







あらゆる面で、真実の証言です。
わたしも以前、別件の取材で出会った、元日本兵から聞きました。

「婦女子を縦に並べ、銃剣で、一度に何人も突き刺す訓練を、肝試しとの名目でさせられた」と。

その老人は、中国に出征していた人でした。

取材は、自宅で行いましたので、彼はまず、妻を居間から下がらせ、泣きながら言ったのです。

「上官からの命令で、逆らえなかった。
やらなかったら、半殺しの目に遭った。
今、初めて告白したんだ」と。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは、帝国陸軍が初年兵にやらせていた、「刺殺訓練」というものです。
事実、第59師団長の、藤田茂中将の証言として、以下のようなものが残っています。

「兵を戦場に慣らせるためには、殺人が早い方法である。
即ち、度胸試しである。
これには、捕虜を使用すればよい。
なるべく早く、この機会を作って、初年兵を戦場に慣らさせ、強くしなければならない


「これには、銃殺より刺殺が効果的である」
(新井利男・藤原彰「侵略の証言ーー中国における日本人戦犯自筆供述書」)

日本が再び「鬼畜」の道を歩まぬよう、「知る」人々は、真実を語るべきです。
命あるうちに。
偽善者の企みを、墜えさせるために。


◆週刊新潮の「三笠宮殿下」特集がすごい件
「罪もない中国の人民に対して犯した、いまわしい暴虐の数々」

【NAVERまとめ】
http://matome.naver.jp/m/odai/2144971574807356901





















・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

正直、背中を押していただいたような気持ちになりました。
縁(えにし)があるような気がしてなりません。
日本のいわゆる「古代史」が、狭野尊の実際の史実と違うと、肌で感じておられた。
「その当時」に、おられたのかもしれません。
わたしはこの方に、人間としての深い愛情と、敬意を感じるからです。


↑以上、転載おわり


三笠宮さまが逝去 昭和天皇の末弟、100歳
【日本経済新聞】2016年10月27日
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG16HEL_X21C16A0MM0000/

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父、三笠宮崇仁(たかひと)さまが、27日午前8時34分、心不全のため、入院先の聖路加国際病院(東京・中央)で亡くなられた。
100歳だった。
宮内庁によると、記録が残るなかで、100歳を超えた皇族は三笠宮さまだけで、史上最長寿だった。
同庁は、葬儀の日取りなどの検討を始めた。

三笠宮さまは、5月16日に、急性肺炎と診断され、同病院に入院。
天皇、皇后両陛下は6月30日、三笠宮さまを見舞われた。
三笠宮さまの症状は、いったん落ち着いたものの、心臓の機能に低下がみられ、治療が続いていた。
宮内庁によると、27日午前7時40分すぎに、容体が急変し、妻の百合子さま(93)が最期をみとられたという。
天皇、皇后両陛下は7日間、喪に服される。

皇位継承順位は5位。
三笠宮さまの逝去で、天皇と皇族からなる皇室は19人に、皇位継承資格者は4人に減った。

三笠宮さまは、第1次世界大戦さなかの1915年(大正4年)12月2日、大正天皇の第4皇子として誕生。
学習院中等科を経て、陸軍士官学校、陸軍大学校に進み、大本営陸軍参謀として勤務されたが、
戦時中の陸軍の戦争指導には、一貫して、批判的な姿勢を示された

戦後は、歴史学者の道を歩み、東大文学部研究生として、古代オリエント史を専攻
海外の史跡調査など、精力的に活動された。
54年には、日本オリエント学会を設立し、会長に就任。
翌年から、東京女子大や青山学院大の講師として、20年余り教壇に立たれた。
テレビ、ラジオの市民講座にも出演し、率直な発言と気さくな人柄で、親しまれた

また、戦後間もないころに、昭和天皇の生前退位や、女帝を容認する意見を表明
神話に基づく紀元節(現在の建国記念の日)復活に反対するなど、歴史学者らしい、合理的な考え方を持たれていた。

41年に、高木正得子爵次女の、百合子さまと結婚。
寛仁(ともひと)さま、桂宮宜仁(よしひと)さま、高円宮憲仁(のりひと)さまと、近衛忠煇・日本赤十字社長夫人の長女●子(●はうかんむりに心に用、やすこ)さん、千宗室氏夫人の次女容子(まさこ)さんの、3男2女に恵まれた。

しかし、高円宮さまは、2002年11月に47歳の若さで急逝。
12年6月には寛仁さま、14年6月にも桂宮さまが、共に66歳で亡くなられ、お子さま方に相次いで先立たれた


三笠宮さまは、01年9月に、軽度の慢性硬膜下血腫で手術を受けられ、回復。
08年6月には、心臓の弁がうまく閉じずに血液が逆流する、持病の「僧帽弁閉鎖不全」による急性左心不全で、入院された。
96歳だった12年7月には、僧帽弁閉鎖不全の手術を受け、順調に回復されていた。
15年12月には、100歳(百寿)を迎えられた。
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秋の模様替えと庭のお客さまと別れと

2016年10月28日 | ひとりごと
今から7年も前にこの家を買った時から、書斎とドア続きになっている二階の小部屋を、治療室にすると言っていた夫。
でも、この家の特徴とも言える、壁塗りの杜撰さ(誰が見てもこりゃ酷い!と感心する)がネックになって、ずっと手付かずに今に至ってしまっていた。

がっ!

どうした風の吹き回しか、突如それは始まった。


しかも、壁の色はイエロォ〜!!


ということで、空き時間を使い、昔取った杵柄でもって、きままに、けれどもコツコツと、作業は進んでいった。


ふ〜ん…黄色も悪くないかも。


あとは、ドアや縁や窓枠などの細かい部分を、もうちょっときれいに整えていくのだそうな。
夫はアイビーリーグ出身なのに、卒業してから数年間、就活もせずにプー太郎をしていた。
まあ、だから日本にふら〜っと来た時に出会い、今こうして人生を一緒に生きているのだけれども…。
そのプー太郎時代に、アルバイトとはいえ、かなり気を入れてペンキ塗りの手伝いをしていたので、
他のこととは違い、あれこれと手伝いや助手を頼んできたり、ブツブツと文句を言ったりしない。
作業の進み具合はカタツムリ級だけど、とりあえず最後まできちっとやる。

来月の中頃から2週間強の日程で、日本に旅行するので、その間の猫たちの世話のために、歩美ちゃんと夫の姉が、この家で寝泊まりしてくれることになっているのだが、
以前、半年ばかりうちの部屋を間借りしていた夫の姉が、「この部屋だと不思議にとてもよく眠れる」と言っていたので、
診療室ではなく、まずは彼女たちの寝室として、デビューすることになりそう。


今日もやって来た、若者たち。


残り少なくなった雑草を、ムシャムシャと喰んでいるかと思ったら、いきなりピョンピョンクルクル、ダンスをしたりしている。
中に一匹、首が白い仔がいて、きれいだなあと思っていたら、ほらぁ〜、と伸びをして見せてくれた。


まつ毛がとっても長いね。


せっかくきれいに咲いたばかりの花や、ようやく食べごろになった野菜や、すくすく育っている葉っぱを食べさえしなければ、追い払ったりしないんだけどなぁ…。



秋が来て、わたしの周りの、とても親しい人たちの中に、これまで一緒に暮らしてきた人と別れることになった人が複数いる。
それは恋人だったり夫婦だったりするのだけれど、その相手の人たちは、わたしにとっても大切な存在だったので、わたしもかなりショックを受けた。
突然、別れて欲しいとパートナーから告げられたその人たちの驚きは、言葉では言い表わせないほどのもので、
混乱し、悲しみ、憤り、後悔し、呆れ、時には平静を装い、悪い夢でも見ているのだろうかとつぶやいたりする。
その、目眩がするほどの感情の洪水に溺れないように、できるだけ時間を割いて、彼らの話を聞き、一緒に泣いたり怒ったりしながら、
彼らが少しでも、孤独ではなく、これが世界の終わりでもなく、多分、今よりすてきな毎日がやってくるかもしれないと思える日が来るまで、寄り添っていこうと思う。

そういうわたしは、13年近く一緒に暮らした夫に、突然、別れたいと告げて傷つけた人間だ。
夫だけではなく、夫の両親、親族の人たち、わたしの家族や親族、そして双方の友人たちも含め、たくさんの人を悲しませ、傷つけた。
その時の、人を傷つけたことで負った自分の心の傷の深さは、想像などまるで及ばない、下手をすると心全部を失ってしまうほどのものだった。
自業自得だと思い、でも、一緒に連れてきた幼い幼い息子たちだけは守らないとと、必死で立ち直った。
立場が違うし、それぞれに傷の深さや悲しみの重さも違うけど、痛みを受けた者同士として、もし可能なら、気持ちを分かち合いながら、会話を続けていこうと思う。
時代は変わり、インターネットという道具を手にしたわたしたちは、同時に、全く別個の方法で、複数の人たちと、それぞれの会話ができるようになった。
だから、ついつい調子に乗って、話が弾んで、気がつくと夜中も夜中、大夜中になってしまっていて、寝不足が続いてしまっているのだけれど…。

これからもずっと続くはずだと思っていた。
けれどもどこか心の片隅で、ぼんやりとした別れの予感もあった。
どんな理由であれ、一緒に暮らしてきた人と別れることは、とても悲しいし辛い。
でもきっと、月並みな言葉だけれど、ああ、あの時あんなことあったよなーって、苦笑いしながら思い出せる日が来るからね。
そしてそんなあなたのそばには、お茶でも啜りながら、どこか遠くの、記憶の中の、小さくなって困っているあなたを温かく包むように、想いを馳せてくれる人がいる。
そんなことを想像しながら、ぼちぼちと、心の傷を癒してってください。
わたしはいつだって、あなたたちのそばにいるからね。
コメント (2)
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