今月10日に告示された、青森県大間町の町長選に、母あさ子さんの遺志を継ぎ、『あさこはうす』を守り、原発建設に執念を燃やす電源開発と闘い続けている厚子さんが、出馬しています。
現職の町長は、過去3回とも無投票当選、そして原発建設を推進してきた人間です。
もう今以上、地震が起こるたびに心配し、恐れなければならない原発を、日本に増やすことだけはやめさせなければなりません。
選挙記事の続きに紹介させていただいた、『反原発を貫くということ』という記事を、一文字一文字書き起こしていくうちに、
原発ムラのやり口のえげつなさ、執拗さが、そして押し切られていく住民の人たちの在り様が、はっきりと見えてきて、何度もたまらない気持ちになりました。
あさ子さんが独りで闘ってこられた日々を思うと、本当に頭が下がる思いでいっぱいになります。
そして、そのあさ子さんを途中から支え、今、電源開発にとどめを刺すべく立ち上がった厚子さん。
大間町の方々はもちろん、日本中に暮らす、「地震国の日本で、安全な原発はあり得ない」という河合弁護士の考えに賛成の方々は、
どうかこの『あさこはうす』と、厚子さんの当選を応援してください!
これまでの2004年から2015年にかけて、原発ムラはカネをばらまいています。
ほぼズブズブだと言っても過言ではないと思います。
国から、電源立地地域対策交付金という名目で、総額約95億円ものカネが支給されているのです。
その間にはあの、『3.11』が起こったのに、その後の4年間も、ごく当たり前のように、何億というカネを、国は出しているのです。
もうこんなにももらったのだから。
などと思う必要はありません。
もうあんなにももらったくせに。
などと思う人は愚かです。
国が勝手に払ったのです。
そして、あんな事故が起こったというのに、原発を国策として増やしてきた自民党は、事故の検証も反省も再考も無く、誰一人責任を取らないままでいるのです。
そんな態度を6年も見せつけられて、それでもまだ信じるのですか?
事故を起こさなくとも汚染を発生させ、さらにはたったの40年もすると、その先何百年ものお守りが必要な汚物だらけになる原発などいらん!
そう突っぱねていいのです。
突っぱねなければ、日本人の品格と知性が疑われます。
もう、そういう世の中になったのです。
気づいてください。
そして、厚子さんを応援してください。
「原子力村は強大な相手。
いまは首半分が切れた巨大な爬虫類が、のたうちまわっているようでも、半年、1年すると傷が治り、前のことを忘れたように復活する。
死にもの狂いの闘いをしないと止められない」
河合弁護士の言葉です。
巨大な爬虫類を、2度と復活させないよう、死にもの狂いの闘いを覚悟しなければなりません。
大間町16年ぶり町長選に 原発が争点 函館市も行方注視
【北海道新聞】2017年1月9日
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/politics/1-0355999.html
電源開発(東京)が大間原発を建設中の、青森県大間町で、任期満了に伴う町長選が、10日告示される。
4選を目指す現職と、新人3人の計4人が出馬表明しており、16年ぶりの選挙戦となる見通し。
原発の早期稼働を掲げる現職に対し、新人は、原発の建設・稼働の遅れを踏まえて、「原発だけに頼らないまちづくり」や、「原発の建設中止」を訴える。
同原発の、建設差し止め訴訟を起こしている函館市も、選挙の行方を注視している。
投開票日は15日。
立候補を表明しているのは、現職の金沢満春氏(66)=無所属=と、元町課長の野崎尚文氏(61)、市民団体代表の熊谷厚子氏(62)、元函館市議で会社役員の佐々木秀樹氏(67)の無所属新人3人。
大間町は、人口約5600人。
金沢氏は、過去3回とも無投票当選で、初めての選挙戦。
原発建設を推進してきた町政の継続を訴え、「電源開発との共存共栄によるまちづくりで、建設業などで仕事を呼び込む」と主張する。
初当選した2004年度から15年度にかけて、町には、国から総額約95億円に上る、電源立地地域対策交付金が支給され、町は道路整備などに充ててきた。
******* ******* ******* *******
反原発を貫くということ
本州の最北端で20年以上、反原発を貫いた女性がいた。
億のカネにも応じなかった彼女を、娘と一人の弁護士が支えた。
『3.11』後、盛り上がる脱原発の機運を、亡き彼女はどう思っているだろう。
<編集部・小北清人(写真も)>
東京・内幸町、帝国ホテルのすぐ隣、26階建て高級オフィスピルの16階に、『さくら共同法律事務所』はある。
フロアの4分の3を占め、所属弁護士35人。
地下一階には、図書室も構える。
面談室から、日比谷公園が一望できる。
明治の頃、ここには鹿鳴館があった。
いかにもカネが唸っていそうな事務所のトップが、河合弘之(67)である。
ビジネスの世界で、辣腕弁護士として名を馳せる。
青森県・下北半島先端の「本州最北端の地」大間町の母娘が、この面談室で初めて河合と向き合ったのは、2005年4月ごろ。
母娘を河合につなげた民主党議員・金田誠一(現在は引退)、原子力資料情報室の沢井まさ子も同席していた。
「青森地裁の裁判が和解させられそうだ。弁護士も和解を勧めるが絶対に嫌だ。負けてもいいから和解だけはしたくない」
母親の熊谷あさ子が、抗戦を訴えた。
訛りがわかりにくい時は、娘の厚子に聞き直したと、河合は述懐する。
当時あさ子67歳、娘の厚子50歳。
誕生日が同じで、年の離れた姉妹のようだった。
俺はブラック・ジャック
問題の裁判は、大間町に原子力発電所を建設中の電源開発(東京)が、あさ子に対し、彼女と共有する原発用地内の農業道路を、解消したいというものだった。(地図参照)。
「正直、勝つのは難しかった。
前任弁護士は、少しでも多くお金を取って、好条件での決着を考えたのだろう。
でも彼女は、示談すれば闘う心のバランスが崩れると、思っているようだった」
翌5月、青森地裁は、電源開発の主張を認めた。
あさ子と河合は控訴、敗れると最高裁に上告。
だが、06年10月、一審判決通りの結論が出た。
その5ヶ月後、あさ子は急逝していた。
娘の厚子は、筆者に言った。
「裁判を続けたのは、原発工事を少しでも遅らせるためです。
その間、世の中の原発への見方が変わるかもしれない。
実際、福島の事故で、こんなに変わったじゃないですか」
『3.11』以前、反原発集会に集まるコアな人たちは、全国でも500人程度だった、と河合は述懐する。
「メンバーは固定的で、別の集会でもよく会う。
高年齢で、学生運動時代はノンセクトラジカルで、当時の熱い心の火を消せない感じの人が多い」
原発訴訟に取り組んできた弁護士も、一般相手の市井弁護士が多い。
企業買収など、ビジネス弁護士で成功しながら、原発訴訟にも取り組む河合は異色だ。
東洋郵船の横井英樹、光進の小谷光浩、イトマンの河村良彦…注目経済事件の主役たちの弁護を、河合は引き受けてきた。
「お金がある人からは、見合う報酬をちゃんと頂く。
それがプロの誇り。
そのお金を、原発とか別の活動にとっておく。
前は、オレは鼠小僧次郎吉だと言ったけど。
いまはブラック・ジャックだと言ってますがね(笑)」
「やり手」と称賛されつつ、物足りなさも感じていた。
「日本に重要なことに寄与したい」
1982年から、中国残留孤児の日本国籍取得に取り組んだ。
彼は、旧満州生まれだ。
国籍を得た数は、1250人にのぼる。
海渡りひばりを歌う
原発問題との出会いは95年、「高木仁三郎さんにカンパを渡してほしい」と、旧知の経営コンサルタントに頼まれたことだった。
高木は、核科学者の将来を捨て、反原発運動に身を投じ、原子力資料情報室を率いて、原発の危険性を警告し続けていた。
河合は高木に数回、預かった計500万〜600万円を渡すうちに、人柄に魅せられていった。
「高木さんという人は、こっちの心を美しくしてくれるような人。何とか助けたいとも思った」
高木は、00年10月にガンで亡くなるが、彼の私財やカンパが元手の、『市民科学基金』の段取りをしたのが河合である。
同年8月、情報室で知り合った、原発訴訟ではピカイチとみる弁護士・海渡雄一(福島瑞穂社民党党首の夫)に頼まれ、福島第一原発のMOX燃料使用差し止め仮処分申請に関わる。
03年には、浜岡原発運転差し止め訴訟の弁護団長となった。
『反原発』への空気は、中国残留孤児の時とは全く違った。
「国策に盾突く危険思想の持ち主」。
パーティでも、反原発の話をすると、人が退いた。
電力会社との利害関係がある、大企業からの依頼も途絶えた。
「地震国の日本で、安全な原発はあり得ない」とみる河合には、周囲の反応は、馬鹿げているとしか思えなかった。
その河合が、好きな歌がある。
負けちゃだめよと ささやいた
ひとり自分に うなずいた
波をのりこえ 波がくる
海をみてると 勇気が出るの
逢えないつらさ こらえて生きる
私と歌おう 塩屋の灯り
美空ひばり晩年の名曲『塩屋峠』。
この歌を、「ひばりよりもひばり的に歌う」と、河合が絶賛したのが、大間の熊谷あさ子だ。
同い年のひばりを、あさ子は大好きだった。
歌手が若い頃の夢でもあった。
06年5月に、ツツガムシ病という奇病で急逝するまでの数年、あさ子はよく、大間からフェリーに乗り、函館に住む厚子を訪ねた。
昼になると、「行くど」と厚子を誘い、行きつけのスナックに。
ウーロン茶を飲みながら、カラオケでひばりの歌を歌った。
歌は午前零時まで続いた。
炉心200メートル移す
それは、大間町で、いかに彼女が孤立させられていたかを物語ってもいる。
好きなカラオケを楽しむには、海を渡って娘のもとに行くしかない。
神経に障るのか、盛んに首を振っていた。
大間町は、人口約6300万人の過疎の町。
この下北半島北端の漁師町の一角で、電源開発が原発の用地買収を始めたのは、90年からだ。
大半は原野に近かったが、電源開発側は、10アール当たり2000万円という、破格の高値を提示した。
買収は順調に進んだものの、最後まで首を縦に振らない家があった。
あさ子だった。
土地は、あさ子が父親から受け継いだもので、広さ計約1.2ヘクタール。
炉心予定地から、約100メートルしか離れていなかった。
「用地の一部は元国有地で、戦後の農地解放に伴い、近くの漁師ら176人が、食糧難解消のため、土地の払い下げを訴え、個人所有が認められた。
60年ごろまで作物が作られたが、食べる問題が解決されると、多くが放置された」(原発反対派の佐藤亮一・元社民党議員)
『準備工事』が始まった00年から、買収は本格化、あさ子には2億円が提示されたともいう。
それでも彼女は、「売らねえ」と拒絶。
畑仕事中に、電源開発の人間が近づき、ジュースや菓子を渡そうとしても受け取らず、置いて帰ろうとすると、
「私の土地に何でそれを置くのか」と、相手にしなかった。
当時の町長が、約50日間日参しても会おうとせず、「これ以上続けるなら訴えます」と手紙を送った。
「一基だけでも造らせてください」と、電源開発社長が訪ねてきたが、応じなかった。
諦めた電源開発は03年、炉心を海側に約200メートル移し、あさ子の土地との距離を広げる計画変更を発表。
その後、あさ子の土地を「敷地外」として、設置許可を国に再申請する。
「あんたは町の発展を妨げている」
そう非難されるのがつらいと、彼女は河合に漏らした。
億の金額の預金通帳を見せ、「あんたも早くこうなりなよ」と、持ち掛ける知り合いもいた。
信頼する親類から、「あんたの父親との約束だった」と、原発に近い別の土地を譲ってほしいと頼まれ、「よそに売るなよ」と渡したら、すぐ電源開発に転売された。
だが彼女は、肝心の土地だけは、売ろうとはしなかった。
母娘で建てた『はうす』
漁師だったあさ子の父親は、一人娘の彼女に、
「海と土地さえあれば、どんなに苦しくても食べていける。だから土地を売るな」と言い残していた。
大間といえば、マグロの一本釣りで有名だが、「熊谷一族」は、その道の名手で有名だった。
「他の町や北海道に、一族の男たちが技術指導に出かけていた。あさ子さんの夫も、かなりの腕前だったと聞いている」
(原発反対の元郵便局員、奥本征雄)
76年に原発誘致話が持ち込まれ、熊谷一族はもちろん、地元漁協の組合員の多くは、反対に回った。
漁師らが全員、消防団員を辞める地域も出た。
前述の佐藤、奥本ら、労組幹部も加わり、勉強会が連日開かれた。
85年には、原発の受け入れのカギとなる、漁協内の調査対策委員会設置の可否が、総会で大差で否決された。
奥本によると、電源開発側は、反対派をマンツーマンで陥落させた。
水を掛けられても、名刺を破られても、一歩ずつ相手の懐に入る。
賛成派になれば、指定のスナックで飲み放題。
「漁業権放棄の補償金は、3千万円出るらしい」と、推進派町議が噂を広めた。
農業と違い、漁業は個人、家単位。
結束は意外と脆かった。
87年の総会では、形勢逆転、調査対策委設置が決まった。
最終的な補償金は、800万〜1800万円ほどだったようだ。
あさ子と夫は反対を貫いた。
夫は体を悪くし、「イカ釣りやコンブ獲りでもあさ子が中心。家計を支えるのはあの人だった」と、漁師仲間は言う。
大間は天然の漁場だ。
カネがなくても、漁や浜に出れば何か獲れる。
あさ子の稼ぎ場所は、原発立地のまさにその場所だった。
原発が稼働したら、温排水で、マグロどころか他の海産物も獲れなくなるかもしれない。
漁業補償は、組合員全員が合意した形とされ、全員の口座に振り込まれた。
最後まで反対したあさ子の家の口座にも、補償金が振り込まれた。
「勝手に振り込まれたんだ。返せというならいつでも返す。それと土地とは別の問題だ」
間もなく、土地買収の話が始まると、彼女はそう口にした。
いま炉心に近い土地には、『あさこはうす』というソーラーハウスがある。
建てたのは05年。
町内の業者を2、3軒回ったが、「この仕事を請け負うと、他の仕事がもらえなくなる」と断られた。
母と娘で、資材を軽トラックで運び、組み立てたという。
炉心位置の変更を発表した電源開発は、間もなく、あさ子と共有していた農業道路の共有解消を、青森地裁に訴えた。
電源開発側は、あさ子を除く大半の地権者との買収交渉に、メドをつけていたが、農業道路だけは、地権者すべての共有。
それを解消できれば、工事がスムーズに進む。
母娘が河合に裁判引き継ぎを求めたのは、この話のことである。
警察に突然呼び出され
裁判所は、電源開発の主張を認める一方、あさ子への65万円の支払いを命じた。
あさ子が使っていた海側の道はなくなり、遠くの国道から『あさこはうす』までの狭い道が、付け替えられた。
鉄条網つきのフェンスで仕切られた道が、1キロ以上も続く。
国道の入り口では、警備担当者が、人の出入りをチェックする。
月に2度ほど、道南から大間に戻る厚子と、『あさこはうす』で会った。
「母はここで、畑仕事をしながら生活したい、骨はここに埋めたいと言っていた。
だから、その思いを継続させたいと思ってます。
土地はいまも母の名義。
弟や妹には、『私の目の黒いうちは、名義を変えようと思うな。私が死んだら好きにしていいけど』と言ってるんですけどね」
厚子の下には、家を継いだマグロ漁師の弟、さらに妹2人。
両親は、朝4時に漁に出て、8時ごろ戻る。
コンブを獲ったときは、母が昼ごろまで干し、それから畑に出て、夕方に乾いたコンブを取り込む。
年かさの厚子は、子守をしながら母を手伝った。
「父は、漁から戻るとボーッとして。お酒を飲んだら荒れてね。
母はいつも仕事に追われ、午前2時ごろまで裁縫をしてた。
生活は楽じゃなく、洋品店で見かけた服が気に入ると、余り布で同じデザインの服を作ってくれた。
次の日、これ着て行けと」
母の話になると、厚子の目に涙がにじみ、声が割れた。
一連の出来事を、厚子が直接知ることはなかった。
彼女は、80年11月に、すし職人の夫と渡米、ニューヨークですし店の仕事を始めた。
時に実家に戻っても、母は心配させまいとしてか、原発のことを口にしなかった。
95年の父の死を機に日本に戻り、函館に居を構えた厚子に、大間警察署が「来てほしい」と要請して来たのは、02年のことだった。
署で聞かされたのは、むつ市内の土木建設会社の社員3人が、その年10月、「輸送中の現金7千万円を、短銃強盗に奪われた」と訴えた事件。
実は狂言で、3人は、あさ子の土地の買収交渉を請け負った勤め先の社長に、交渉は順調と嘘をつき、ごまかし切れなくなって、事件をでっち上げたという。
(公判で、被告の一人は、電源開発に依頼され、会社が買収交渉に乗りだしたと証言したが、電源開発側は否定)
仰天した厚子は、母を問いただした。
最初はそっぽを向いたあさ子だったが、少し顔を赤らめ、これまでの経緯を、ポツリポツリと漏らし始めた。
「自分はどんなことでも受けて立つが、子どもには絶対手を出すな。
自分は何も怖いものはねえ。
鉄砲でも槍でも持ってこい。
オレはそれより怖い思いを、何度もして来たんだ」
母は一人、電源開発の現地事務所に、そう怒鳴り込んだという。
「たった一人の闘い」は終わった。
厚子という「無二の同志」ができた。
厚子の娘が、「おばあちゃんの顔、柔らかくなったね」と言った。
死にもの狂いの闘い
「私も母も、根本的には一人なんですよ。
わかりますか。
他の人には頼りたくないし、制約されたくもないんです。
母とよく似てると言われます。
顔も似てきたって(笑)」
厚子も原告団の一人に加わる、大間原発工事差し止め訴訟が、昨年7月、函館地裁に起こされた。
原告約170人の大半は、道南の人たちだ。
河合は、弁護団共同代表に名を連ねる。
訴状の表紙は、浜で働くあさ子の絵だ。
河合は、この7月16日、全原発の廃炉を求める、弁護士約100人による『脱原発弁護団全国連絡会』を結成した。
「原子力村は強大な相手。
いまは首半分が切れた巨大な爬虫類が、のたうちまわっているようでも、半年、1年すると傷が治り、前のことを忘れたように復活する。
死にもの狂いの闘いをしないと止められない」
『3.11』後、大間原発は、工事中断のままである。
******* ******* ******* *******
ここに、大間原発訴訟の会からの、次の証人尋問の予定を載せておきます。
現職の町長は、過去3回とも無投票当選、そして原発建設を推進してきた人間です。
もう今以上、地震が起こるたびに心配し、恐れなければならない原発を、日本に増やすことだけはやめさせなければなりません。
選挙記事の続きに紹介させていただいた、『反原発を貫くということ』という記事を、一文字一文字書き起こしていくうちに、
原発ムラのやり口のえげつなさ、執拗さが、そして押し切られていく住民の人たちの在り様が、はっきりと見えてきて、何度もたまらない気持ちになりました。
あさ子さんが独りで闘ってこられた日々を思うと、本当に頭が下がる思いでいっぱいになります。
そして、そのあさ子さんを途中から支え、今、電源開発にとどめを刺すべく立ち上がった厚子さん。
大間町の方々はもちろん、日本中に暮らす、「地震国の日本で、安全な原発はあり得ない」という河合弁護士の考えに賛成の方々は、
どうかこの『あさこはうす』と、厚子さんの当選を応援してください!
これまでの2004年から2015年にかけて、原発ムラはカネをばらまいています。
ほぼズブズブだと言っても過言ではないと思います。
国から、電源立地地域対策交付金という名目で、総額約95億円ものカネが支給されているのです。
その間にはあの、『3.11』が起こったのに、その後の4年間も、ごく当たり前のように、何億というカネを、国は出しているのです。
もうこんなにももらったのだから。
などと思う必要はありません。
もうあんなにももらったくせに。
などと思う人は愚かです。
国が勝手に払ったのです。
そして、あんな事故が起こったというのに、原発を国策として増やしてきた自民党は、事故の検証も反省も再考も無く、誰一人責任を取らないままでいるのです。
そんな態度を6年も見せつけられて、それでもまだ信じるのですか?
事故を起こさなくとも汚染を発生させ、さらにはたったの40年もすると、その先何百年ものお守りが必要な汚物だらけになる原発などいらん!
そう突っぱねていいのです。
突っぱねなければ、日本人の品格と知性が疑われます。
もう、そういう世の中になったのです。
気づいてください。
そして、厚子さんを応援してください。
「原子力村は強大な相手。
いまは首半分が切れた巨大な爬虫類が、のたうちまわっているようでも、半年、1年すると傷が治り、前のことを忘れたように復活する。
死にもの狂いの闘いをしないと止められない」
河合弁護士の言葉です。
巨大な爬虫類を、2度と復活させないよう、死にもの狂いの闘いを覚悟しなければなりません。
大間町16年ぶり町長選に 原発が争点 函館市も行方注視
【北海道新聞】2017年1月9日
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/politics/1-0355999.html
電源開発(東京)が大間原発を建設中の、青森県大間町で、任期満了に伴う町長選が、10日告示される。
4選を目指す現職と、新人3人の計4人が出馬表明しており、16年ぶりの選挙戦となる見通し。
原発の早期稼働を掲げる現職に対し、新人は、原発の建設・稼働の遅れを踏まえて、「原発だけに頼らないまちづくり」や、「原発の建設中止」を訴える。
同原発の、建設差し止め訴訟を起こしている函館市も、選挙の行方を注視している。
投開票日は15日。
立候補を表明しているのは、現職の金沢満春氏(66)=無所属=と、元町課長の野崎尚文氏(61)、市民団体代表の熊谷厚子氏(62)、元函館市議で会社役員の佐々木秀樹氏(67)の無所属新人3人。
大間町は、人口約5600人。
金沢氏は、過去3回とも無投票当選で、初めての選挙戦。
原発建設を推進してきた町政の継続を訴え、「電源開発との共存共栄によるまちづくりで、建設業などで仕事を呼び込む」と主張する。
初当選した2004年度から15年度にかけて、町には、国から総額約95億円に上る、電源立地地域対策交付金が支給され、町は道路整備などに充ててきた。
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反原発を貫くということ
本州の最北端で20年以上、反原発を貫いた女性がいた。
億のカネにも応じなかった彼女を、娘と一人の弁護士が支えた。
『3.11』後、盛り上がる脱原発の機運を、亡き彼女はどう思っているだろう。
<編集部・小北清人(写真も)>
東京・内幸町、帝国ホテルのすぐ隣、26階建て高級オフィスピルの16階に、『さくら共同法律事務所』はある。
フロアの4分の3を占め、所属弁護士35人。
地下一階には、図書室も構える。
面談室から、日比谷公園が一望できる。
明治の頃、ここには鹿鳴館があった。
いかにもカネが唸っていそうな事務所のトップが、河合弘之(67)である。
ビジネスの世界で、辣腕弁護士として名を馳せる。
青森県・下北半島先端の「本州最北端の地」大間町の母娘が、この面談室で初めて河合と向き合ったのは、2005年4月ごろ。
母娘を河合につなげた民主党議員・金田誠一(現在は引退)、原子力資料情報室の沢井まさ子も同席していた。
「青森地裁の裁判が和解させられそうだ。弁護士も和解を勧めるが絶対に嫌だ。負けてもいいから和解だけはしたくない」
母親の熊谷あさ子が、抗戦を訴えた。
訛りがわかりにくい時は、娘の厚子に聞き直したと、河合は述懐する。
当時あさ子67歳、娘の厚子50歳。
誕生日が同じで、年の離れた姉妹のようだった。
俺はブラック・ジャック
問題の裁判は、大間町に原子力発電所を建設中の電源開発(東京)が、あさ子に対し、彼女と共有する原発用地内の農業道路を、解消したいというものだった。(地図参照)。
「正直、勝つのは難しかった。
前任弁護士は、少しでも多くお金を取って、好条件での決着を考えたのだろう。
でも彼女は、示談すれば闘う心のバランスが崩れると、思っているようだった」
翌5月、青森地裁は、電源開発の主張を認めた。
あさ子と河合は控訴、敗れると最高裁に上告。
だが、06年10月、一審判決通りの結論が出た。
その5ヶ月後、あさ子は急逝していた。
娘の厚子は、筆者に言った。
「裁判を続けたのは、原発工事を少しでも遅らせるためです。
その間、世の中の原発への見方が変わるかもしれない。
実際、福島の事故で、こんなに変わったじゃないですか」
『3.11』以前、反原発集会に集まるコアな人たちは、全国でも500人程度だった、と河合は述懐する。
「メンバーは固定的で、別の集会でもよく会う。
高年齢で、学生運動時代はノンセクトラジカルで、当時の熱い心の火を消せない感じの人が多い」
原発訴訟に取り組んできた弁護士も、一般相手の市井弁護士が多い。
企業買収など、ビジネス弁護士で成功しながら、原発訴訟にも取り組む河合は異色だ。
東洋郵船の横井英樹、光進の小谷光浩、イトマンの河村良彦…注目経済事件の主役たちの弁護を、河合は引き受けてきた。
「お金がある人からは、見合う報酬をちゃんと頂く。
それがプロの誇り。
そのお金を、原発とか別の活動にとっておく。
前は、オレは鼠小僧次郎吉だと言ったけど。
いまはブラック・ジャックだと言ってますがね(笑)」
「やり手」と称賛されつつ、物足りなさも感じていた。
「日本に重要なことに寄与したい」
1982年から、中国残留孤児の日本国籍取得に取り組んだ。
彼は、旧満州生まれだ。
国籍を得た数は、1250人にのぼる。
海渡りひばりを歌う
原発問題との出会いは95年、「高木仁三郎さんにカンパを渡してほしい」と、旧知の経営コンサルタントに頼まれたことだった。
高木は、核科学者の将来を捨て、反原発運動に身を投じ、原子力資料情報室を率いて、原発の危険性を警告し続けていた。
河合は高木に数回、預かった計500万〜600万円を渡すうちに、人柄に魅せられていった。
「高木さんという人は、こっちの心を美しくしてくれるような人。何とか助けたいとも思った」
高木は、00年10月にガンで亡くなるが、彼の私財やカンパが元手の、『市民科学基金』の段取りをしたのが河合である。
同年8月、情報室で知り合った、原発訴訟ではピカイチとみる弁護士・海渡雄一(福島瑞穂社民党党首の夫)に頼まれ、福島第一原発のMOX燃料使用差し止め仮処分申請に関わる。
03年には、浜岡原発運転差し止め訴訟の弁護団長となった。
『反原発』への空気は、中国残留孤児の時とは全く違った。
「国策に盾突く危険思想の持ち主」。
パーティでも、反原発の話をすると、人が退いた。
電力会社との利害関係がある、大企業からの依頼も途絶えた。
「地震国の日本で、安全な原発はあり得ない」とみる河合には、周囲の反応は、馬鹿げているとしか思えなかった。
その河合が、好きな歌がある。
負けちゃだめよと ささやいた
ひとり自分に うなずいた
波をのりこえ 波がくる
海をみてると 勇気が出るの
逢えないつらさ こらえて生きる
私と歌おう 塩屋の灯り
美空ひばり晩年の名曲『塩屋峠』。
この歌を、「ひばりよりもひばり的に歌う」と、河合が絶賛したのが、大間の熊谷あさ子だ。
同い年のひばりを、あさ子は大好きだった。
歌手が若い頃の夢でもあった。
06年5月に、ツツガムシ病という奇病で急逝するまでの数年、あさ子はよく、大間からフェリーに乗り、函館に住む厚子を訪ねた。
昼になると、「行くど」と厚子を誘い、行きつけのスナックに。
ウーロン茶を飲みながら、カラオケでひばりの歌を歌った。
歌は午前零時まで続いた。
炉心200メートル移す
それは、大間町で、いかに彼女が孤立させられていたかを物語ってもいる。
好きなカラオケを楽しむには、海を渡って娘のもとに行くしかない。
神経に障るのか、盛んに首を振っていた。
大間町は、人口約6300万人の過疎の町。
この下北半島北端の漁師町の一角で、電源開発が原発の用地買収を始めたのは、90年からだ。
大半は原野に近かったが、電源開発側は、10アール当たり2000万円という、破格の高値を提示した。
買収は順調に進んだものの、最後まで首を縦に振らない家があった。
あさ子だった。
土地は、あさ子が父親から受け継いだもので、広さ計約1.2ヘクタール。
炉心予定地から、約100メートルしか離れていなかった。
「用地の一部は元国有地で、戦後の農地解放に伴い、近くの漁師ら176人が、食糧難解消のため、土地の払い下げを訴え、個人所有が認められた。
60年ごろまで作物が作られたが、食べる問題が解決されると、多くが放置された」(原発反対派の佐藤亮一・元社民党議員)
『準備工事』が始まった00年から、買収は本格化、あさ子には2億円が提示されたともいう。
それでも彼女は、「売らねえ」と拒絶。
畑仕事中に、電源開発の人間が近づき、ジュースや菓子を渡そうとしても受け取らず、置いて帰ろうとすると、
「私の土地に何でそれを置くのか」と、相手にしなかった。
当時の町長が、約50日間日参しても会おうとせず、「これ以上続けるなら訴えます」と手紙を送った。
「一基だけでも造らせてください」と、電源開発社長が訪ねてきたが、応じなかった。
諦めた電源開発は03年、炉心を海側に約200メートル移し、あさ子の土地との距離を広げる計画変更を発表。
その後、あさ子の土地を「敷地外」として、設置許可を国に再申請する。
「あんたは町の発展を妨げている」
そう非難されるのがつらいと、彼女は河合に漏らした。
億の金額の預金通帳を見せ、「あんたも早くこうなりなよ」と、持ち掛ける知り合いもいた。
信頼する親類から、「あんたの父親との約束だった」と、原発に近い別の土地を譲ってほしいと頼まれ、「よそに売るなよ」と渡したら、すぐ電源開発に転売された。
だが彼女は、肝心の土地だけは、売ろうとはしなかった。
母娘で建てた『はうす』
漁師だったあさ子の父親は、一人娘の彼女に、
「海と土地さえあれば、どんなに苦しくても食べていける。だから土地を売るな」と言い残していた。
大間といえば、マグロの一本釣りで有名だが、「熊谷一族」は、その道の名手で有名だった。
「他の町や北海道に、一族の男たちが技術指導に出かけていた。あさ子さんの夫も、かなりの腕前だったと聞いている」
(原発反対の元郵便局員、奥本征雄)
76年に原発誘致話が持ち込まれ、熊谷一族はもちろん、地元漁協の組合員の多くは、反対に回った。
漁師らが全員、消防団員を辞める地域も出た。
前述の佐藤、奥本ら、労組幹部も加わり、勉強会が連日開かれた。
85年には、原発の受け入れのカギとなる、漁協内の調査対策委員会設置の可否が、総会で大差で否決された。
奥本によると、電源開発側は、反対派をマンツーマンで陥落させた。
水を掛けられても、名刺を破られても、一歩ずつ相手の懐に入る。
賛成派になれば、指定のスナックで飲み放題。
「漁業権放棄の補償金は、3千万円出るらしい」と、推進派町議が噂を広めた。
農業と違い、漁業は個人、家単位。
結束は意外と脆かった。
87年の総会では、形勢逆転、調査対策委設置が決まった。
最終的な補償金は、800万〜1800万円ほどだったようだ。
あさ子と夫は反対を貫いた。
夫は体を悪くし、「イカ釣りやコンブ獲りでもあさ子が中心。家計を支えるのはあの人だった」と、漁師仲間は言う。
大間は天然の漁場だ。
カネがなくても、漁や浜に出れば何か獲れる。
あさ子の稼ぎ場所は、原発立地のまさにその場所だった。
原発が稼働したら、温排水で、マグロどころか他の海産物も獲れなくなるかもしれない。
漁業補償は、組合員全員が合意した形とされ、全員の口座に振り込まれた。
最後まで反対したあさ子の家の口座にも、補償金が振り込まれた。
「勝手に振り込まれたんだ。返せというならいつでも返す。それと土地とは別の問題だ」
間もなく、土地買収の話が始まると、彼女はそう口にした。
いま炉心に近い土地には、『あさこはうす』というソーラーハウスがある。
建てたのは05年。
町内の業者を2、3軒回ったが、「この仕事を請け負うと、他の仕事がもらえなくなる」と断られた。
母と娘で、資材を軽トラックで運び、組み立てたという。
炉心位置の変更を発表した電源開発は、間もなく、あさ子と共有していた農業道路の共有解消を、青森地裁に訴えた。
電源開発側は、あさ子を除く大半の地権者との買収交渉に、メドをつけていたが、農業道路だけは、地権者すべての共有。
それを解消できれば、工事がスムーズに進む。
母娘が河合に裁判引き継ぎを求めたのは、この話のことである。
警察に突然呼び出され
裁判所は、電源開発の主張を認める一方、あさ子への65万円の支払いを命じた。
あさ子が使っていた海側の道はなくなり、遠くの国道から『あさこはうす』までの狭い道が、付け替えられた。
鉄条網つきのフェンスで仕切られた道が、1キロ以上も続く。
国道の入り口では、警備担当者が、人の出入りをチェックする。
月に2度ほど、道南から大間に戻る厚子と、『あさこはうす』で会った。
「母はここで、畑仕事をしながら生活したい、骨はここに埋めたいと言っていた。
だから、その思いを継続させたいと思ってます。
土地はいまも母の名義。
弟や妹には、『私の目の黒いうちは、名義を変えようと思うな。私が死んだら好きにしていいけど』と言ってるんですけどね」
厚子の下には、家を継いだマグロ漁師の弟、さらに妹2人。
両親は、朝4時に漁に出て、8時ごろ戻る。
コンブを獲ったときは、母が昼ごろまで干し、それから畑に出て、夕方に乾いたコンブを取り込む。
年かさの厚子は、子守をしながら母を手伝った。
「父は、漁から戻るとボーッとして。お酒を飲んだら荒れてね。
母はいつも仕事に追われ、午前2時ごろまで裁縫をしてた。
生活は楽じゃなく、洋品店で見かけた服が気に入ると、余り布で同じデザインの服を作ってくれた。
次の日、これ着て行けと」
母の話になると、厚子の目に涙がにじみ、声が割れた。
一連の出来事を、厚子が直接知ることはなかった。
彼女は、80年11月に、すし職人の夫と渡米、ニューヨークですし店の仕事を始めた。
時に実家に戻っても、母は心配させまいとしてか、原発のことを口にしなかった。
95年の父の死を機に日本に戻り、函館に居を構えた厚子に、大間警察署が「来てほしい」と要請して来たのは、02年のことだった。
署で聞かされたのは、むつ市内の土木建設会社の社員3人が、その年10月、「輸送中の現金7千万円を、短銃強盗に奪われた」と訴えた事件。
実は狂言で、3人は、あさ子の土地の買収交渉を請け負った勤め先の社長に、交渉は順調と嘘をつき、ごまかし切れなくなって、事件をでっち上げたという。
(公判で、被告の一人は、電源開発に依頼され、会社が買収交渉に乗りだしたと証言したが、電源開発側は否定)
仰天した厚子は、母を問いただした。
最初はそっぽを向いたあさ子だったが、少し顔を赤らめ、これまでの経緯を、ポツリポツリと漏らし始めた。
「自分はどんなことでも受けて立つが、子どもには絶対手を出すな。
自分は何も怖いものはねえ。
鉄砲でも槍でも持ってこい。
オレはそれより怖い思いを、何度もして来たんだ」
母は一人、電源開発の現地事務所に、そう怒鳴り込んだという。
「たった一人の闘い」は終わった。
厚子という「無二の同志」ができた。
厚子の娘が、「おばあちゃんの顔、柔らかくなったね」と言った。
死にもの狂いの闘い
「私も母も、根本的には一人なんですよ。
わかりますか。
他の人には頼りたくないし、制約されたくもないんです。
母とよく似てると言われます。
顔も似てきたって(笑)」
厚子も原告団の一人に加わる、大間原発工事差し止め訴訟が、昨年7月、函館地裁に起こされた。
原告約170人の大半は、道南の人たちだ。
河合は、弁護団共同代表に名を連ねる。
訴状の表紙は、浜で働くあさ子の絵だ。
河合は、この7月16日、全原発の廃炉を求める、弁護士約100人による『脱原発弁護団全国連絡会』を結成した。
「原子力村は強大な相手。
いまは首半分が切れた巨大な爬虫類が、のたうちまわっているようでも、半年、1年すると傷が治り、前のことを忘れたように復活する。
死にもの狂いの闘いをしないと止められない」
『3.11』後、大間原発は、工事中断のままである。
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ここに、大間原発訴訟の会からの、次の証人尋問の予定を載せておきます。