利休は堺の商人の出ですが、織部や遠州、石州は大名でしたので、自然と武士(武家)の茶の湯として
確立して行きます。一方商人階級(豪商)においても、博多(神屋宗湛 そうたん)や京都の商人を
中心に「茶の湯」は活発に発展して行きます。
尚、信長や初期の秀吉の時代に勢力のあった、堺の商人達は、秀吉が堺の環濠を埋め立て頃(1586年)
から勢いが無く自治体も衰弱して行きます。
1) 「関が原の戦」以降の茶の湯
① 御朱印船貿易
徳川家康は、新たに海外貿易に許可制を導入し、「朱印状」を発給します。
中国の明とは、秀吉以来外交が断たれてい為、貿易相手国は、主に東南アジアの、シャム(タイ)、
カンボジア、マレー半島、ルソン島などでした。マニラのアユタヤには、日本町も作られています。
) 輸入品として、生糸や絹、武具用の鮫皮、砂糖などでした。その他には、茶道具も含まれて
いました。即ち、「南蛮物、嶋物(しまもの)」と呼ばれる製品で「ルソン茶壷」、茶入、
粽(ちまき)、縄簾(すだれ)、〆切などの「各種水指」、「安南蜻蛉手茶碗」「柿香合」
などの陶磁器類や、伽羅(きゃら)などの香木、象牙などでした。
注: ルソン茶壷は、茶葉の保存に適していた為、特に珍重されます。
) 輸出品としては、銀、刀、硫黄などでした。
② 朱印船貿易と渡航禁止と帰国禁止令
朱印船貿易で財を成した京都の豪商には、角倉了以(すみくらりょうい)、初代茶屋四郎次郎、
大坂の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵らがいます。更に、九州の大名の島津、松浦、有馬、細川、
鍋島なども加わります。幕府は、西国大名の勢力拡大を恐れ、1609年大名の大船の保持を禁止し、
特定の商人(特権商人)のみに限ります。更に、1935年には海外渡航と帰国の禁止令が出て、
朱印船貿易は終焉と成ると同時に、我が国は鎖国の時代に入ります。
) 京都の茶屋四郎次郎の邸宅跡から、大量の茶陶器が発見されています。
) 豪商達が所持して、その名を残した茶陶には、以下の物があります。
角倉金襴、茶屋肩衝、茶屋瓢箪、本阿弥肩衝、雨漏堅手有来(うらい)、栄任肩衝などです。
) 鎖国時代であっても、中国とオランダは特別貿易が許されていました。
それ故、出島のオランダ商館を通じて、わが国よりオランダや中国に、大量の陶磁器が
発注されています。1635年の「磁器とオランダ連合東インド会社」によると、オランダの
船など四隻が、染付け鉢38,864個、染付皿1,400枚、紅緑皿450枚、その他飯茶碗や湯吞茶碗
など、総数13万5905個が輸入されています。
同じ年に、中国から磁器が75万個入ってきます。この中には、茶壷47個、茶碗1400個、福州の
茶壷1127個も入っていました。これらの注文主は、諸国の大名や商人達でした。
特に、家光の老中であった、掘田正盛(加賀殿)が有名です。
これらは、茶会で水指や香合とともに、使われています。
③ 特権商人と茶の湯
朱印船は廃止に成りましたが、各地の大名と結びつき勢力を伸ばした特権商人が、次々に
出現します。主に武士階級に広がった「茶の湯」も、商人達に広がって行きます。
京都では、後藤、本阿弥、雁金(かりがね)屋、十二屋、大文字屋などの豪商です。
彼らは、「茶の湯」を嗜(たしなむ)み、又、多くの名物茶道具を所持していました。
・ 特に大文字屋は、京都を代表する豪商で、利休や織部に師事し、後に家康に取り入り、
勢力を拡大します。茶の湯を通して、諸国の大名と交流を重ねます。更に、阿波蜂須賀家、
筑前黒田家、津山藩(岡山県)、薩摩藩などの蔵米を担保に金銀を貸し付ける、大名貸しを
していました。当然、「日野肩衝」など大名物も多数所持していました。
注: 大名物とは、室町幕府が所蔵した、美術工芸品の事です。
以下次回に続きます。
確立して行きます。一方商人階級(豪商)においても、博多(神屋宗湛 そうたん)や京都の商人を
中心に「茶の湯」は活発に発展して行きます。
尚、信長や初期の秀吉の時代に勢力のあった、堺の商人達は、秀吉が堺の環濠を埋め立て頃(1586年)
から勢いが無く自治体も衰弱して行きます。
1) 「関が原の戦」以降の茶の湯
① 御朱印船貿易
徳川家康は、新たに海外貿易に許可制を導入し、「朱印状」を発給します。
中国の明とは、秀吉以来外交が断たれてい為、貿易相手国は、主に東南アジアの、シャム(タイ)、
カンボジア、マレー半島、ルソン島などでした。マニラのアユタヤには、日本町も作られています。
) 輸入品として、生糸や絹、武具用の鮫皮、砂糖などでした。その他には、茶道具も含まれて
いました。即ち、「南蛮物、嶋物(しまもの)」と呼ばれる製品で「ルソン茶壷」、茶入、
粽(ちまき)、縄簾(すだれ)、〆切などの「各種水指」、「安南蜻蛉手茶碗」「柿香合」
などの陶磁器類や、伽羅(きゃら)などの香木、象牙などでした。
注: ルソン茶壷は、茶葉の保存に適していた為、特に珍重されます。
) 輸出品としては、銀、刀、硫黄などでした。
② 朱印船貿易と渡航禁止と帰国禁止令
朱印船貿易で財を成した京都の豪商には、角倉了以(すみくらりょうい)、初代茶屋四郎次郎、
大坂の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵らがいます。更に、九州の大名の島津、松浦、有馬、細川、
鍋島なども加わります。幕府は、西国大名の勢力拡大を恐れ、1609年大名の大船の保持を禁止し、
特定の商人(特権商人)のみに限ります。更に、1935年には海外渡航と帰国の禁止令が出て、
朱印船貿易は終焉と成ると同時に、我が国は鎖国の時代に入ります。
) 京都の茶屋四郎次郎の邸宅跡から、大量の茶陶器が発見されています。
) 豪商達が所持して、その名を残した茶陶には、以下の物があります。
角倉金襴、茶屋肩衝、茶屋瓢箪、本阿弥肩衝、雨漏堅手有来(うらい)、栄任肩衝などです。
) 鎖国時代であっても、中国とオランダは特別貿易が許されていました。
それ故、出島のオランダ商館を通じて、わが国よりオランダや中国に、大量の陶磁器が
発注されています。1635年の「磁器とオランダ連合東インド会社」によると、オランダの
船など四隻が、染付け鉢38,864個、染付皿1,400枚、紅緑皿450枚、その他飯茶碗や湯吞茶碗
など、総数13万5905個が輸入されています。
同じ年に、中国から磁器が75万個入ってきます。この中には、茶壷47個、茶碗1400個、福州の
茶壷1127個も入っていました。これらの注文主は、諸国の大名や商人達でした。
特に、家光の老中であった、掘田正盛(加賀殿)が有名です。
これらは、茶会で水指や香合とともに、使われています。
③ 特権商人と茶の湯
朱印船は廃止に成りましたが、各地の大名と結びつき勢力を伸ばした特権商人が、次々に
出現します。主に武士階級に広がった「茶の湯」も、商人達に広がって行きます。
京都では、後藤、本阿弥、雁金(かりがね)屋、十二屋、大文字屋などの豪商です。
彼らは、「茶の湯」を嗜(たしなむ)み、又、多くの名物茶道具を所持していました。
・ 特に大文字屋は、京都を代表する豪商で、利休や織部に師事し、後に家康に取り入り、
勢力を拡大します。茶の湯を通して、諸国の大名と交流を重ねます。更に、阿波蜂須賀家、
筑前黒田家、津山藩(岡山県)、薩摩藩などの蔵米を担保に金銀を貸し付ける、大名貸しを
していました。当然、「日野肩衝」など大名物も多数所持していました。
注: 大名物とは、室町幕府が所蔵した、美術工芸品の事です。
以下次回に続きます。
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