元禄の頃に成ると、世の中も安定し、庶民の暮らしぶりも格段に良くなってきます。
僧侶、武家(大名)、公家、豪商達と限られた人々に限定されていた茶の湯は、一般商人や一部の
町人達にも広がって行きます。その要因として、①流派の増加、②茶の湯の書物の発行、③新たな
教授法の採用が挙げられます。①については、後日お話しますが、ここでは、②、③を取り上げます。
1) 茶の湯の書物の発行
① 茶の湯の書物と言えば、今までは「茶回記」の形式の物がほとんどでした。
何時何処で、誰の主催で、亭主は誰で、どんな客が参加し、どの様な茶道具が披露され、
どの様な茶道具で茶会が行われたか、どの様な様子で有ったかを、記述したものです。
これらの書物は一部の人のみしか見る事が出来ませんでした。
② 利休百回忌(1690年)を前後して、茶の湯に関する本が続々と発行されます。
) 「女重宝記(おんなちょうほうき)」元禄5年 女中(御殿女中の事か)の嗜み(たしなみ)
として、「香を聞く事、茶の湯をする事、連歌俳諧をする事」が記されています。
翌年発行される「男重宝記」には、「茶の湯を点てよう、喫み(のみ)よう」とあり、
茶の湯が教養の必須条件でもあった様です。
) 千宗旦の高弟の山田宗徧(やまだ そうへん)は、「茶道便蒙沙(べんもうしょう)」と
「茶道要録(ようろく)」、「利休茶道具図会」を刊行しています。
) 「南方録」(編者:立花実山)七巻七冊の書で、利休の侘び茶を伝えています。
) その他にも、宗旦の弟子の杉木普斉(ふさい)」が多くの弟子に、茶の湯の伝書を与えて
います。更に、藤村庸軒(ようけん)の「茶話指月集」や、遠藤元閑(げんかん)による
「茶之湯三伝集」(利休、織部、遠州の伝記)や「雪月集」「茶之湯古今或問(わくもん)」、
「当流茶之湯流伝集」「茶之湯献立指南」などたて続けに9冊の本を出版します。
・ これらの一部の本は、繰り返し発行されていた様で、それだけ需要(見る人)が多かったと
思われます。
・ 出版は主に京都、大坂、江戸が中心でしたが、特に京都では、百軒以上の出版元があったと、
言われています。
3) 新たな教授法「七事式の制定」
利休百五十回忌の頃、裏千家八代宗家、一燈宗室(いっとうそうしつ)と兄で表千家を継いだ
如心斎宗左(じょしんさいそうさ)と伴に、新しい茶の湯の教授方法を編み出します。
① 茶の湯の稽古(教授方法)は、師匠と一対一で行っていました。茶の湯人口の増大に対し、
この稽古方法では、限界があり新たな方法が模索されます。
② 「七事式」とは、その原型と成っていた、「茶かふき」「廻り炭」「廻り花」を整備し、
新たに「且座(しゃくざ)」「花月」「一二三(いちにさん)」「員茶(かずちゃ)」を
加えた物です。(「千家七事式」の書は、解説書であり、幕末まで数度に渡り発行されています。)
・ 遊び心を取りいれた稽古方法で、飽きさせずに、稽古に取り組める様にしました。
茶の湯の初心者向きな、稽古方法とも言われています。
・ 「七事式」での稽古は、八畳の広間で五人以上で行われるのが原則です。
それ故、一度に多くの弟子に、教授できる方法でもあります。
・ この新しい稽古方法には、当然反発も有り「茶の湯の堕落だ」と言う人もいましたが、
次第に浸透し、茶の湯人口を拡大する要因にもなりました。
「七事式」の詳細は次回お話します。
僧侶、武家(大名)、公家、豪商達と限られた人々に限定されていた茶の湯は、一般商人や一部の
町人達にも広がって行きます。その要因として、①流派の増加、②茶の湯の書物の発行、③新たな
教授法の採用が挙げられます。①については、後日お話しますが、ここでは、②、③を取り上げます。
1) 茶の湯の書物の発行
① 茶の湯の書物と言えば、今までは「茶回記」の形式の物がほとんどでした。
何時何処で、誰の主催で、亭主は誰で、どんな客が参加し、どの様な茶道具が披露され、
どの様な茶道具で茶会が行われたか、どの様な様子で有ったかを、記述したものです。
これらの書物は一部の人のみしか見る事が出来ませんでした。
② 利休百回忌(1690年)を前後して、茶の湯に関する本が続々と発行されます。
) 「女重宝記(おんなちょうほうき)」元禄5年 女中(御殿女中の事か)の嗜み(たしなみ)
として、「香を聞く事、茶の湯をする事、連歌俳諧をする事」が記されています。
翌年発行される「男重宝記」には、「茶の湯を点てよう、喫み(のみ)よう」とあり、
茶の湯が教養の必須条件でもあった様です。
) 千宗旦の高弟の山田宗徧(やまだ そうへん)は、「茶道便蒙沙(べんもうしょう)」と
「茶道要録(ようろく)」、「利休茶道具図会」を刊行しています。
) 「南方録」(編者:立花実山)七巻七冊の書で、利休の侘び茶を伝えています。
) その他にも、宗旦の弟子の杉木普斉(ふさい)」が多くの弟子に、茶の湯の伝書を与えて
います。更に、藤村庸軒(ようけん)の「茶話指月集」や、遠藤元閑(げんかん)による
「茶之湯三伝集」(利休、織部、遠州の伝記)や「雪月集」「茶之湯古今或問(わくもん)」、
「当流茶之湯流伝集」「茶之湯献立指南」などたて続けに9冊の本を出版します。
・ これらの一部の本は、繰り返し発行されていた様で、それだけ需要(見る人)が多かったと
思われます。
・ 出版は主に京都、大坂、江戸が中心でしたが、特に京都では、百軒以上の出版元があったと、
言われています。
3) 新たな教授法「七事式の制定」
利休百五十回忌の頃、裏千家八代宗家、一燈宗室(いっとうそうしつ)と兄で表千家を継いだ
如心斎宗左(じょしんさいそうさ)と伴に、新しい茶の湯の教授方法を編み出します。
① 茶の湯の稽古(教授方法)は、師匠と一対一で行っていました。茶の湯人口の増大に対し、
この稽古方法では、限界があり新たな方法が模索されます。
② 「七事式」とは、その原型と成っていた、「茶かふき」「廻り炭」「廻り花」を整備し、
新たに「且座(しゃくざ)」「花月」「一二三(いちにさん)」「員茶(かずちゃ)」を
加えた物です。(「千家七事式」の書は、解説書であり、幕末まで数度に渡り発行されています。)
・ 遊び心を取りいれた稽古方法で、飽きさせずに、稽古に取り組める様にしました。
茶の湯の初心者向きな、稽古方法とも言われています。
・ 「七事式」での稽古は、八畳の広間で五人以上で行われるのが原則です。
それ故、一度に多くの弟子に、教授できる方法でもあります。
・ この新しい稽古方法には、当然反発も有り「茶の湯の堕落だ」と言う人もいましたが、
次第に浸透し、茶の湯人口を拡大する要因にもなりました。
「七事式」の詳細は次回お話します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます