愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

鳴海城 名古屋市緑区

2020年08月20日 05時56分13秒 | 名古屋市緑区
 年金者組合の方から緑区のお城の紹介をしてほしい、支部ニュースで連載してくれないか、という依頼がありました。年金者組合というのは、年金をもらっている方々が、正当に年金がもらえるようにと制度の拡充の為に活動している組合です。そればかりではなく、カラオケ、卓球、俳句、歌声、絵画など集まって趣味の世界を充実させている団体のようです。
 せっかくなので、お受けすることにしました。緑区のお城と言ってもほとんどは桶狭間の戦い関連のものです。今川方の鳴海城、大高城、それに対抗して織田方の丹下砦、善照寺砦、中島砦、鷲津砦、丸根砦とまあ、これくらいでしょうか。これらを順に紹介していけたらいいかなあと思います。

第1回 鳴海城
桶狭間の戦いで今川側の武将岡部元信が守った城
鳴海城は、名鉄鳴海駅から歩いて10分弱のところにあります。今は城跡公園になっています。


 この城は根古屋城とも言い、1390年代に築城されたそうです。もともとは織田側のお城でしたが、1560年の桶狭間の闘いでは、今川側の武将岡部元信(もとのぶ)が守っていました。この岡部元信は、今川義元が討たれたとの知らせを受けても、最後まで織田勢とたたかい、義元の首をもらい受けるという条件でようやく城を明け渡したそうです。岡部元信の後は佐久間信盛(のぶもり)、正勝(まさかつ)が城主となりましたが、1590年廃城となりました。作町は佐久間という名前の名残だそうです。


 公園はちょうど本丸にあたります。公園南側に曲輪や切岸の跡が見受けられます。そしてこの公園をぐるりと一周している道は、その形から堀だったと考えられます。北にある東福院には城門の梁を使用しているという山門があります。


捕虜収容所跡 名古屋市緑区

2020年08月17日 05時40分35秒 | 名古屋市緑区
ネットで見つけた
先日、ネットで戦争の遺跡を調べていたところ、偶然名古屋市緑区に捕虜収容所があったことを発見しました。

ネット「朝日新聞DEGITAL」2019年5月6日の記事

記事によれば、第2次世界大戦中名古屋市緑区有松に捕虜収容所があったそうです。「名古屋俘虜(ふりょ)収容所第2分所」などと呼ばれ、県内唯一の捕虜収容所だったそうです。終戦時には米英の捕虜約270人がいたそうです。捕虜は熱田区の鉄道車両工場で働かされ、電車で通う姿が地元で目撃されていました。そのうちの一人、城山三郎さんが「捕虜の居た駅」というタイトルでその様子を小説にあらしていたそうです。それを知ったもと南山中学校教員馬場豊さんは、苦労して資料を集め、聞き取りもして「捕虜のいた町」という戯曲を作ったそうです。

馬場豊「捕虜のいた町」

馬場さんたちは「捕虜収容所跡を残す会」を結成し、収容所にあったれんが造りのポンプ施設跡や土の中からのぞく配管を史跡として案内プレートを設置することを訴えています。記事では、ポンプ施設跡で訴えているところが写真として掲載されていました。

城山三郎「捕虜の居た駅」の一節
城山さんの小説は前記「捕虜のいた町」に収録されていました。1961年の作品ですが、名古屋市生まれの城山さんの青春の一コマを描いているような、ほのかな初恋の物語になっていました。しかし、その中に収容所の捕虜に対する理不尽な日本人の対応が詳しく描かれていました。
駅(有松)で収容所の捕虜を電車に乗せている場面です。一般客もいます。
「それまでも時々声高に何かどなりながら捕虜の列に附添っていた下士官や警防団員たちが、待ち構えていたように襲いかかるのだ。半靴で蹴上げる。ゴンボ剣と呼ばれていた短い帯剣で、尻や背筋を突く。背伸びして棍棒を振るう者もいた。うすい髪を通して頭蓋を打つ音が、かたくひびく。
 それは毎朝きまってくり返される光景であった。下士官たちのしていることには、何の意味もなかった。乗り方としては、押し合いもみ合うよりも、捕虜たちのそうした乗り方の方が能率的である。それでいて、下士官たちは襲いかからずには居られない。捕虜より一枚上の人間なのだということを、通勤客たちの前で見せたかったのであろうか。」
70数年前の有松駅で実際にあったことだと思います。

名古屋市は史跡として保存を
さて、このポンプ跡地がどこなのか、少し迷いましたが、ようやく見つけました。ぜひ名古屋市には、この史跡を市指定としていただき、保存するとともに案内プレートを設置してほしいと思いました。


捕虜収容所ポンプ施設跡の位置(Yahoo地図より作成しました)


捕虜収容所ポンプ施設跡

成海神社例大祭 名古屋市緑区

2019年10月14日 06時38分45秒 | 名古屋市緑区
大型で強い台風19号が特に信州や関東地方を襲いました、河川の氾濫により多くの家などが浸水の被害にあわれました。また、亡くなった方も見えます。哀悼の意を表明します。また、一日も早い復興を祈ります。

10月13日は、秋晴れになりました。
名古屋市緑区は歴史の古い町です。
成海神社では山車が出て賑やかにお祭りが行われるということを聞き、行ってみることにしました。

成海神社10月13日例大祭の予定

10時ごろでしょうか、現地神社付近についたのは。ちょうど山車が山車庫から出たばかりでした。「城乃下町」の山車です。

交差点で90度に方向を転換する山車

どこに行くのだろうとこの町の山車についていくことにしました。すると、神社の近くの少し広いスペースに4町の山車が集まっていました。丹下町、北浦町、花井町、城之下町の4つです。鳴海にはもっと町があるので、待っていればあとの町の山車が来たのかもしれませんが、残念ながら時間がなく、この場を去ることにしました。次に来たときは、全部一通り見たいものです。

神社の近くに集結した山車 奥の山車にはからくり人形が付いていました。



桶狭間の戦い再現劇 名古屋市緑区

2018年06月13日 17時18分36秒 | 名古屋市緑区
けっこう忙しくて、なかなか史跡めぐりができません。
そこで、今回も新聞記事から紹介します。

6月10日は、桶狭間の戦いがあった日だそうです。「信長公記」では天文21年(1552)5月19日に合戦があったとされています。天文21年は、今では永禄3年(1560)の間違いで、筆者太田牛一または写した人の誤記だとされています。日付は5月19日ですが、これについての議論は聞きませんので、新聞が言う6月10日は、旧暦を新暦に改めた日付かもしれません。
いずれにしても、雨の多い季節に戦われたことは間違いないようです。

中日新聞6月12日より

有松界隈(2) 名古屋市緑区

2015年05月02日 07時13分15秒 | 名古屋市緑区

有松町の町並み

有松町は、その古い町並みが名古屋市都市景観条例で守られています。有松町で保護の対象となったものは、以下のようです。
岡家住宅、小塚家住宅、竹田家住宅、西町山車倉、服部家住宅、服部家土蔵(1992年指定)


服部幸平家の倉 絞問屋服部家から分家した家柄。明治時代中期。


こちらの建物が棚橋家住宅です。文化財の看板がありました。

棚橋家住宅主屋(旧 絞り問屋 大井桁 服部家の遺構 建築年代明治8年上棟)と記してありました。

こちらの建物は有松絞り井桁屋ですが、屋根に「うだつ」がありました。服部邸(愛知県指定文化財)


こちらは山車倉です。


以前、鳴海の宿ということで鳴海町を訪れたことがありましたが、雰囲気的にはこの有松町界隈が昔の面影をよく残していました。古都を散歩している感じでよかったです。