愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

有松町界隈(1) 名古屋市緑区

2015年05月02日 00時02分53秒 | 名古屋市緑区

インターネット「楽天ICIBA」で売られている有松絞

4月26日、よく晴れた日曜日になりました。近くに散歩がてら出かけました。例によって「灯台下暗し」で、近くにすばらしい歴史遺跡がありました。「有松町」です。
有松町は、名古屋市緑区の一角です。

近くに、桶狭間古戦場跡があります。また西のほうに行けば、鳴海小作争議の場所があります。

「有松・鳴海絞会館」でもらったパンフレットによれば、有松町は慶長13年(1608年)絞開祖竹田庄九郎らによって誕生したそうです。尾張藩が有松絞を藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたところから始まったそうです。

有松・鳴海絞会館

有松・鳴海絞会館の中にはいると、さっそく有松絞のいろいろなグッズが販売されていました。

2階へ上がるとビデオ視聴コーナー、資料館がありました。
絞のいろいろな模様を展示していました。

また、地域の方が絞をしている工程を実演してくれていました。たいへん細かい作業を、一日に10時間近く行っているとのことでした。また、手よりも足がしびれると、本音を明るく語ってくれました。

実演していただけた方は、玄関に名前がありました。

鳴海地区 名古屋市緑区

2014年12月21日 16時45分42秒 | 名古屋市緑区
 早いもので、もう12月も半ば過ぎ。2014年も年の瀬です。そんな中のんびりと地域の散策をしました。鳴海地区です。鳴海地区は「鳴海小作争議」の主に地主側の人たちが居住していた地域です。
「鳴海小作争議をさぐる―鳴尾少年探偵団ものがたり」という本にあった小作争議関連地図の鳴海地区を見ながら鳴海地区の散策をしました。


訴訟を起こした地主野村家の家
 はじめは、「野村家」です。野村家は小作人たちが「掟米」(小作料)を渋ったときに掟米請求の訴訟をした地主のうちの一人です。地図にわざわざ「野村家」とあるので、おそらくこの家がその地主の野村家だろうと思います。

まわりを塀で囲み、大変広い家でした。さすが元地主と感動しました。

和解案を考えた地主下郷家の家
 次に見たのは、下郷家です。下郷家は小作争議の解決に向けていわゆる「千代倉案」と言う調停案を作った地主の家です。千代倉とは当時の下郷家の屋号です。

 道路(旧東海道)に面して小さな店のようなものがあって、看板に「千代倉」とありました。店には「夢斉工房」とか「そば」とかの字が書かれていました。なんの店なのか、現在も営業しているのかわかりませんでした。しかし、「千代倉」とあるのは昔の屋号を店の名前にしたのではないかと思いました。下郷家は実はこの後ろにあって、それは広大な家でした。さすが元地主とやはり思いました。

調停役をかってでた瑞泉寺
 次は、瑞泉寺です。瑞泉寺はやはり小作争議の調停に一役かったお寺です。瑞泉寺の住職浅井蜜成さんたちが、下郷家が発案した「千代倉案」で調停に当たったようです。

瑞泉寺山門


 道路から見た瑞泉寺。瑞泉寺は曹洞宗のお寺で、教育委員会の案内板によると、「20世呑舟(どんしゅう)は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷(しもざと)弥兵衛の援助により宝暦5年(1755年)堂宇を完成した」とありました。つまり下郷家と瑞泉寺は昔から関係が深かったことがうかがわれます。

鳴海地区の豪族下郷家
 旧東海道沿いに歩きましたが、この道沿いには下郷という古いお家がいくつかありました。

下郷家その2


下郷家その3

 おそらく千代倉下郷家とは何らかの姻戚関係があるもと思われます。瑞泉寺の案内板によれば鳴海の豪族だったので、いくつかの分家があったのでしょう。

旧鳴海町役場跡
 あと、旧鳴海町の役場跡がありました。今は生涯学習センターです。

鳴海町役場跡にたっている生涯学習センター


役場跡の石碑

浦里公園 名古屋市緑区

2014年10月19日 10時44分15秒 | 名古屋市緑区
浦里公園の銅像
名古屋市緑区の浦里公園というところに銅像があります。

雉本朗造(きじもと ときぞう)という人です。

 雉本朗造は、大正時代にこの地に起きた「鳴海小作争議」において小作人の側に立って小作人を裁判で支援した人です。

鳴海小作争議を支援
 鳴海小作争議は大正6年に起こり、大正12年に解決しましたが、雉本朗造は、その1年前に謎の死を遂げました。「たまたま大正11年3月13日九州旅行方面に旅行の帰路、瀬戸内海で船上より行方不明となり、不慮の死をとげられた」(「緑区誌」2010年)

 争議に関わった小作人たちが、雉本朗造の死を偲んで、昭和5年にこの銅像を建立しました。(石堀山)そして昭和48年現在の浦里公園に移されたそうです。


公園に立てられている「雉本博士 銅像後援会」の看板

桶狭間の戦い(10) 名古屋市緑区

2013年06月30日 18時00分40秒 | 名古屋市緑区
鳴海城・成海神社
桶狭間の戦いシリーズもこれで終わりにします。
最後は、今川側の3つの城の一つ鳴海城です。
ここに鳴海城を築くということで成海神社が北のほうに移動しています。


現在の成海神社




道を隔てて分かれている鳴海城址
鳴海城がどこにあったのか、現在場所が2つに分かれています。一つは「鳴海城址公園」になっているところです。

鳴海城址公園

もう一つは、道を隔てて東側にある小さな場所です。その東側の場所に「鳴海城址」の碑が立っています。また、「成海神社」もあります。

鳴海城の碑


成海神社

おそらく、二つとも鳴海城の場所だったのだと思います。道が後で鳴海城の場所を分断したのではないかと思います。また、「成海神社の碑」は、せっかくなのでここに成海神社が昔あったと言うために立てられているのだと思います。

桶狭間の戦い(9) 名古屋市緑区

2013年06月30日 09時13分26秒 | 名古屋市緑区
桶狭間古戦場公園
前に、桶狭間古戦場跡が二つあるとお伝えしましたが、そのうちの一つ「桶狭間古戦場公園」を紹介します。


ここで今川義元が戦死したそうです。石碑とお墓があります。しかし、はっきりとしたことは分かっていません。

ここで戦死したという石碑

義元のお墓

また、この公園に今川義元、織田信長の銅像があります。平成22年に建てられました。桶狭間の戦いの雰囲気をかもしだしています。

二人の銅像

平成22年に建てられました。

桶狭間の合戦のジオラマもありました。今川軍(徳川軍)、織田軍が、どのような経路で戦いを始めたのかが分かるようになっていました。