愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

菩提山城(3)土橋、大手曲輪 岐阜県不破郡

2021年04月21日 07時07分46秒 | 岐阜県
ここから結構険しい登山道を行くと約40分ぐらいで城域にたどり着きます。

「これより菩提山城」看板


菩提山城縄張り図(山頂本曲輪案内掲示板より)

この地図で一番下の「大手山道、土橋、竪堀」と記されているところです。
左右に竪堀が掘られ、登山道は土橋になっていました。


東側の竪堀

この土橋の上には小さな曲輪が3段になっていて、入口を警護していた様子がうかがえました。

入口警護の曲輪

大手曲輪が見えてきました。大手曲輪は、本曲輪を守る出曲輪的な存在と思われます。

大手曲輪


大手曲輪と二の曲輪の間
間に堀切があり、二の曲輪の南面は削られ、切岸となっていました。

菩提山城つづく

菩提山城(2)登山道 岐阜県不破郡

2021年04月20日 05時15分15秒 | 岐阜県
さあ、菩提山城に登城です。入口に登山コースの案内板がありました。

菩提山城ハイキングコース案内

道なりに行くと、ふと右側に階段と標識がありました。「菩提山城跡ハイキングコース」と書いてあります。「これは見逃しがちだなあ」と、思いました。ただし、道をまっすぐ行っても、「菩提寺」に行き、そこからこのコースに入ることができるようです。

ハイキングコース入り口

ここの階段を上っていくと、すぐに白山神社があります。

白山神社鳥居

また、この地は松尾芭蕉も訪れたことがあるようで、「芭蕉の句碑」なるものがありました。
「此の山の 悲しさ告げよ ところほり」
垂井町の説明で「元禄4年ごろの大凶作に詠まれた歌で凶作によって人々がところ芋を掘り出して生活している様子を詠んだ」そうです。

ところ芋とは、ネットで調べると、ヤマノイモ科の蔓性多年草だそうで、味はまずくて、多くの図鑑で「食べられません」と紹介されているそうです。


芭蕉句碑

白山神社を後にして、山を登っていきますと、途中、眺望が開けているところに出ました。
方角は東の方です。よく見ると、名古屋駅前のビル群が見えました。びっくりでした。

登山道中腹からの眺望(名古屋駅ビル群発見)

菩提山城 つづく

菩提山城(1)竹中陣屋 岐阜県不破郡

2021年04月19日 11時34分01秒 | 岐阜県
 菩提山城は天文13年(1544)ごろ地元の豪族岩手氏の居城だったそうです。その後、永禄元年(1558)竹中重元(いわゆる竹中半兵衛の父)が岩手氏を滅ぼし、永禄2年(1559)菩提山城を築いたそうです。竹中重元は、永禄3年に死去したので、子の重治が家督を継ぎました。有名な竹中半兵衛です。

竹中半兵衛像(竹中陣屋にて コロナ禍の中マスクをしていました)

半兵衛は秀吉の「三顧の礼」で家臣となり、黒田官兵衛と「両兵衛」と呼ばれました。秀吉の戦いの参謀として活躍しましたが、天正7年(1579)中国攻めの時に病気で亡くなりました。その後は子の重門がつぎました。重門は菩提山城を降りて、麓の岩手に館を構えました。菩提山城は、その時点で廃城になりました。

竹中陣屋(菩提山麓の岩手にあります)

関ケ原の戦いでは、はじめ竹中重門は西軍に味方していましたが、井伊直政の仲介で徳川家康につきました。そして、家康側の砦として菩提山城を提供しました。NHKの「空から読み解く! 新説・関ヶ原」という番組では西軍のはじめの構想として玉城、松尾山城とともに関ヶ原に来た東軍を囲む城として菩提山城は位置づけられていました。

竹中陣屋は、江戸時代竹中氏が幕府の旗本として陣屋を構えていた場所です。現在は、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っています。

水堀跡


櫓門北側の石垣跡

また近くには竹中氏が天保年間に文武両道を教えるためつくった道場菁莪(せいが)堂を記念した菁莪記念館がありました。その中に竹中陣屋の模型が置いてありました。

菁莪記念館


竹中陣屋模型(四角い堀に囲まれた部分が竹中陣屋です。門は右上にあります。陣屋の大部分は現在の岩手小学校の敷地となっています)大変広かったことが分かりました。

菩提山城 つづく

松尾山城(2) 岐阜県関ケ原町

2020年04月07日 06時35分59秒 | 岐阜県
馬出とされている遺構
本丸から虎口を抜けて南の方に出ると、曲輪があります。この曲輪は周りを土塁で囲み、ここから敵を攻撃できるようになっています。同時に、この曲輪を「馬出風(うまだしふう)」と見る方もいます。(中井氏など)確かに前方に堀切が左右に2本出ていて、敵の侵入を防いでいます。しかし、同時に、堀切の中央に土橋(どばし)がありますので、私は馬出とは言えないと思います。土橋から敵が容易に侵入できるからです。この曲輪を馬出だと考えるならば、この土橋はなかった、あとで造られたものと考えなければいけないと思います。

土橋(土塁も虎口があったかのように開けられている)

西の曲輪
松尾山城がしっかりした山城であることを示すものの一つです。この曲輪は、本丸の西側に谷を挟んで造られています。北と南に土塁を設け、特に南側は土塁の外にかなり険しい堀切(ほりきり)を造って防御しています。また本丸とこの曲輪との間の大きな谷は、南から侵入した敵を誘い込んで一網打尽にすることができます。

西の曲輪(南の曲輪から撮影、手前に大きな堀切がありました)

食い違い土塁
この谷の中に食い違いの土塁があります。敵がこの谷から本丸や西の曲輪に登ろうとしても食い違いの土塁によって勢いを止められ、周りから攻撃されてしまいます。

食い違い土塁(実際残っていたのは手前の土塁で、奥のもう一つの土塁は、付け根のところに名残りだけ残っていました。)

竪堀
西の曲輪の南側の堀切の向こうにまた一つ曲輪があります。この曲輪は周りに土塁もなく防御が緩くなっています。そこで、関ヶ原以前の城の跡なのか、1か月で間に合わなくて緩いまま、造りかけになっているのか説が分かれているようです。なお、南端の竪堀3本は必見と中井氏は言っています。

3本の縦堀

どうやって攻めていったの?
さて、この松尾山城から大谷吉継の陣にどこを通って攻めていったのでしょう。大谷吉継の陣跡は松尾山の北西にあります。でも、松尾山城からそっち方面に出撃するのが難しそうでした。その理由は、本丸の出入り口である虎口が関ヶ原とは反対の方向にあること、また本丸や腰曲輪の北側(関ヶ原側)には土塁などがあって、防御するようにはなっていますが、出撃するための道などが見当たらないこと、さらにいくつかある曲輪の配置や馬出、堀切等が関ヶ原とは反対方向(南側)から侵入してくる敵を想定して造られていることように思えたことです。どうやって大谷吉継の陣に攻めていったのか、疑問として残りました。

松尾山城 おしまい

松尾山城(1) 岐阜県関ケ原町

2020年04月06日 08時25分36秒 | 岐阜県
3月22日に松尾山に登りましたが、松尾山城の詳しい様子は紹介していなかったので、改めて紹介します。
なお、2017年に関ヶ原に行ったときに松尾山に登り、ブログで紹介していますので、参考まで。

関ヶ原古戦場(8) 岐阜県

山城として
松尾山城は、現地案内によれば、応永年間(1394~1428)に小守護(守護代の家臣?)富島氏が城を築いたとあります。また、元亀(げんき)元年(1570)には浅井長政が織田信長に対する前線基地として樋口直房(ひぐちなおひさ)をこの城に入れたそうです。しかし樋口直房は調略により織田信長方に寝返り、松尾城には信長の家臣不破光治(ふわみつはる)があらたに配されました。ところが、中井均氏によると、現在の城郭遺構を考えた場合それ以降の改修があったのではないかと言います。

本丸の掲示板(城の歴史を記載している)

関ケ原の戦いの城として
中井氏によれば、この城は関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元(もうりてるもと)の城(つまり西軍の本拠地)として、石田三成が大垣城主伊藤盛正(いとうもりまさ)に築かせたそうです。慶長5年(関ヶ原の戦いの年)8月10日に築城を命じ、そのまま守備につかせることにしたそうです。しかし、9月14日、石田三成の意思を無視した形で小早川秀秋(こばやかわひであき)が、守備していた伊藤盛正を追い出して陣を構えたということです。関ケ原の戦いは、翌15日に開戦します。

小早川秀秋(ウィキペディアから)

腰曲輪
松尾山城の本丸にたどり着くちょっと手前に腰曲輪があります。曲輪の周りには土塁が巡り、先端が段々になっています。そしてその先を堀切で切っています。こうした曲輪がこの曲輪の南の方にも見られます。城の東側を守る役割をしていたようです。

腰曲輪

本丸
【土塁】本丸でまず目につくのは周囲をぐるっと土塁が巡らされていることです。これだけでもただの陣ではないと分かります。

本丸

【眺望】さらに、ここから関ヶ原を一望することができます。小早川秀秋がここで戦況を見ながら、裏切るかどうか迷っていて、徳川家康の「問い鉄砲」で裏切ることを決意したというのは江戸時代の軍記物(ぐんきもの)の話で、実際は合戦が始まると同時に裏切り行為に及んだようです。

本丸から関ヶ原を望む(当時木は切られていて、なかったものと思われます)

【枡形虎口】本丸の南側に枡形虎口(ますがたこぐち)があります。枡形虎口は戦国時代の後の方で造られることが多いです。この松尾山城の本格的な改修が関ヶ原合戦の前あたりだと考えられているのは、この虎口があることが一つの理由だと思います。

本丸の枡形虎口

【竪堀】本丸から北の方に一本竪堀(たてぼり)が入っています。これも戦国時代の後期に造られることが多い構造物です。したがって、この竪堀も関ヶ原の戦いに関してのものと思われます。

本丸北の竪堀(撮影したところより下方にも延びていました)

松尾山城 つづく