愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

岐阜城天守台石垣の見学会 岐阜県岐阜市

2020年01月17日 16時29分42秒 | 岐阜県
1月17日、岐阜城に行ってまいりました。上記「天守台の石垣」の見学です。

説明をするたぶん教育委員会の学芸員の方


問題の石垣


問題の石垣(説明付き)
明治以降の石垣 画像の上の方から説明しますと、中ぐらいの石で行儀よく並んでいるのは、「明治以降の石垣」で、現在の天守閣を造った時に天守台の石垣として積まれたものです。江戸時代以降の石垣は、斜めになっているのが特徴だそうです。それに比べ、戦国時代の石垣は水平になっているそうです。
裏込め石 次に右下の方に行って、小さな石がたくさんありますが、これは「裏込め石」で、信長の石垣の特徴だそうです。逆にこれがあるので、信長時代の石垣という理由にもなっているそうです。
いわゆる石垣 「裏込め石」の左に中くらいの石がいくつか並んでいますが、いわゆる石垣です。
隅石1 その石垣の手前に大きな石が3つほどあります。これは、石垣の角に当たる隅石だそうです。一番上の石が手前に飛び出していますが、何らかの理由で回転が加えられたらしいということです。
隅石2 その下の石も隅石で最下部に当たるそうです。その石の左にやはり大きめの石がありますが、これは、最下部の隅石を支えるためのものだろうということです。

見学可能な石垣は、これですべてです。
これで、信長時代の天守台の石垣だというわけです。
ちなみに、天守台ではなく、ただの居住のための屋敷かも知れないと質問したら、「そうかもしれない。小牧城と同じかもしれない」と言っておられました。
皆さんはどう思われますか。2枚ほど別の画像を掲載します。

石垣の画像(その2)

石垣の画像(その3)

なお、見学会は明日18日迄です。

美濃金山城(3) 岐阜県可児市

2019年08月21日 09時35分12秒 | 岐阜県
本丸にやっと着きました。本丸には、石碑がありました。

金山城石碑

さらに驚いたことに、館の礎石が残っているとのことです。

本丸に残る礎石

礎石のある建物で思い出すのは、高知県の岡豊城です。あのとき、元館長さんが「岡豊城には、礎石があるということそれを礎石のある柱で支えている建物、つまり高層の建物、瓦ぶきの建物があったということが、推定される。」と力説しておられたのを思い出します。

金山城は森忠政の時代にかなり整備されたとされています。森忠政の時代は、本能寺の変から関ケ原の合戦までなので、まさに豊臣時代です。この時代に石垣、天守閣、礎石、瓦ぶきなどがあっても全然問題はないと思います。逆に、こうした礎石の発見からこの金山城が豊臣時代に整備されたのではないかと考えられるのだと思います。

排水溝の跡も見つかっています。

排水溝の跡

また金山城は、自然の岩盤を取り込んだ石垣を造っています。本丸北側の石垣にも自然の岩盤が見られました。そして、水対策としての集水桝という施設もあったそうです。

自然の岩盤と集水桝

土の城もいいけど、石垣のある山城もいいなあと、満足感に浸りながら、最後に米蔵跡の石垣を見て帰路につきました。

米蔵跡の石垣

美濃金山城 おしまい

美濃金山城(2) 岐阜県可児市

2019年08月20日 08時23分43秒 | 岐阜県

金山城案内図(現地案内板、「古城山払い下げ記念碑」の説明版の図に曲輪や虎口を書き加えました。図の「現在地」は「古城山払い下げ記念碑」の場所を示しています)

出丸駐車場も遺構になっています。

出丸駐車場の石垣 野面積みで組まれています。


出丸南東の石垣

この出丸の石垣は、2004年に積み直されているそうです。(洋泉社「山城を歩く」)角の石垣も立派に組み直されていました。

出丸からの眺望も抜群でした。出丸だけでも十分見ごたえのある城で、来た甲斐があったと思いました。

出丸からの眺望

出丸から三の丸に入るとすぐに二の丸下の石垣が見えました。そして、その石垣に「破城」の説明がありました。破城するときは、石垣の天端(一番上)と角を破壊するそうです。そのことで、天端からの建物を造れなくするようにし、また他の人にもこの城は破城されているということを示すそうです。

破城の痕跡を示す石垣

そこから左を見ますと、自然の岩石で造ったという虎口が見えました。

自然の岩石を使った虎口


二の丸

二の丸には、二の丸門、侍屋敷、物見櫓などの諸施設があったそうです。物見櫓の跡は、わかりました。

物見櫓跡

少し盛り上がっていて、礎石っぽい石が並んでいます。物見櫓も礎石を使って建てたのでしょうか。すごいです。次に枡形虎口(ますがたこぐち)が見えてきました。


本丸下の枡形虎口 向かって左から撮影

さらに、本丸の南西隅石がみえました。算木積みだそうです。破城したときに角の石は壊したので、残っていないと思うのですが、後で積み直したのでしょうか?


本丸南西隅石

美濃金山城 つづく

美濃金山城(1) 岐阜県可児市

2019年08月19日 10時20分49秒 | 岐阜県
8月18日、岐阜県可児市にある美濃金山城を尋ねました。金山城は、斎藤正義という武将によって天文6年(1537)に築城されました。当時は、「烏峰城(うほうじょう)」と呼んでいました。しかし、斉藤正義は、天文17年(1548)家臣である久々利頼興から酒宴に招かれ、そこで暗殺されたそうです。

金山城の歴史を伝える案内板(本丸)

その後しばらく城主不在の時がありましたが、永禄8年(1565)織田信長の勢力が美濃に及び、森可成(よしなり)がこの城に入り、名前も金山城(兼山城)としました。金山城は、森氏によって、信長の美濃支配の拠点になりました。
その森可成は、姉川の戦いで戦死し、金山城は子の森長可(ながよし)が継ぎました。森長可はその活躍を織田信長に認められ、信濃国に領地を与えられ転封しました。金山城は、弟の森蘭丸が継ぎました。しかし、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が死に、森蘭丸も討死してしまいました。森長可も天正14年(1584)小牧・長久手の戦いで戦死してしまいます。

武蔵塚 (小牧・長久手の戦いで、同じ豊臣方の池田恒興とともに戦死しました。恒興は、「勝入塚」(池田勝入斎)として、森長可は、「武蔵塚」(森武蔵守)として石碑が建てられました。)

そこで、金山城は長可の弟の忠政が継ぐことになりました。忠政は、はじめは豊臣側についていましたが、豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いでは東軍として戦いました。
慶長5年(1600)森忠政は、信濃に転封となり、金山城は、犬山城城主石川光吉(三吉、貞清)の管理する城となりました。しかし、慶長6年(1601)破却されたそうです。


犬山城 (犬山城は、城主石川光吉の時、金山城を移築したとされていたそうですが、1961年の犬山城の解体修理の際、その痕跡が全く見つからなかったため、現在は否定されているそうです。(ウィキペディア))

さて、金山城は下から登ってもよかったのですが、この天候(暑すぎます)なので、出丸駐車場まで車で行くことにしました。

美濃金山城 つづく

苗木城 岐阜県

2019年04月10日 08時24分24秒 | 岐阜県
4月1日(月)行って見たかった苗木城に行きました。

「足軽長屋跡」から見た苗木城

とにかく大きな岩と石垣のコラボレーションにただただ感動しました。

大矢倉跡

この大矢倉も岩と石垣ががっちりとスクラムを組んでいました。

大矢倉の石垣と岩


天守下の大岩

圧巻は天守の下にごつごつとむき出しに見えていた大きな岩たちでした。
自然地形を見事に取り入れた築城術に感心するばかりでした。

天守からの眺めも最高でした。

天守からの眺め。画像左を流れる川は木曽川です。

来てみて、やっぱり良かったと満足しました。