愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小豆坂(あずきざか)古戦場跡 岡崎市

2014年01月19日 09時30分06秒 | 岡崎市
小豆坂というところ
 小豆坂という地名が岡崎市に有ることは、知人が岡崎の同名の小学校、小豆坂小学校に勤めていたことで知りました。その次に織田信秀(信長の父)と今川義元がこの地で戦っていることで知りました。「信長公記」のはじめの方にその記事が記載されています。そして三河一向一揆の中でも小豆坂が出てきました。

小豆坂古戦場の碑

戦いについての案内板

一揆勢の敗北を決定付けた小豆坂の戦い
 小豆坂の戦いは、「松平記」では、以下のように記述されています。(現代語文に直し、文章を細かく分けてみました。)
・そのころ、家康の伯父水野藤十郎忠重は、兄の下野守信元と仲が良くなかった。
・藤十郎は、三河の国の鷲塚というところで浪人をしていた。相婿(藤十郎の嫁の姉妹の婿)の水野太郎作正重、村越又十郎と三人は一揆が起こったことを聞いて気がかりと思い、見舞いに来たところ、
・このようにいろんなところで、戦が起こっているのに、どうしてこれが見捨てておかれようかと、水野藤十郎は先鋒の集団に加わり、数度の手柄を立てたのである。
・その時分佐々木上宮寺の一揆勢の後方支援隊として、一揆勢は岡、大平へ動いた。
・馬場小平太、石川新九郎正綱、同新七郎親綱、矢田作十郎助吉が大将であった。天野三兵と馬場小平太が槍を合わせ、天野が馬場小平太をつき伏して首を取った。一揆勢はこれを見て戦意を失い、引き返した。
・家康は、大久保一族を針崎勝鬘寺の押さえとしておき、大久保弥三郎計忠政を案内として、『盗木を直に小豆坂へあかり給へハ』、
・一揆勢が引き返していく道で行き会い、合戦をし敵を多く討ち取った。
・一揆どもはかなわず引いていった。
・石川新七は、赤の具足に金の団扇の指物で、最後尾を退却していった。家康の家来たちは、これを討とうと考えた。
・他のひとは山にのがれ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎吉実、波切孫七郎は本道をしずしずと『除く』ところを水野藤十郎が追い詰め、石川新七だと見ると「返せ」と言葉を掛けてついてかかった。
・石川新七は取って返し、お互いに突きあっていたが、水野藤十郎が石川をつき伏せ、団扇を添えて名を上げた。
・大見藤六は水野太郎作につき伏せられ、佐橋甚五郎もここで討たれてしまった。波切孫七郎は、家康自身が追いかけ、鑓で後ろを二回ついたが、傷が浅く引き払って逃げていってしまった。
・味方はみな本陣に帰った。


現地の案内板でも
 現地の案内板にも以下のように記されていました。
永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。

 つまり、小豆坂の戦いでの敗戦により一揆勢の劣勢が決定的となり、以後「和睦」へと推移していったのです。

いろいろな疑問が
しかし、地図で確認すると、いろいろと疑問が出てきます。

・水野藤十郎は陣中見舞いをしに、どこへ出向いたか。
・家康は、どこから大平・岡に向かったか。
・一揆勢は、上宮寺の後詰として大平・岡に向かっているが、上宮寺の先鋒隊は、どこで戦いをしていたのか。

 など、小豆坂の戦いは、それに至る過程がよく分かりません。
 しかし、一揆勢の武士、馬場小平太がまず討ち取られ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七郎などが、討ち取られたり、傷を負ったりしたことで、一揆勢は大きな痛手を受けたものと思われます。
コメント (3)
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