愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

田原城 田原市

2015年02月14日 10時44分05秒 | 田原市
田原城築城は戸田宗光
豊橋市に用がありましたので、ついでに田原城を見学しました。
田原城は、文明12年(1480年)ごろ、戸田宗光の築城です。戸田宗光は戦国時代に東三河で活躍していた武将です。その頃戸田氏は渥美半島、知多半島の一部を支配し、豊橋の牧野氏と争っていたようです。戸田宗光は、田原城のほかに二連木城(豊橋市)も築城しています。

三河一向一揆でも登場した戸田氏
三河一向一揆では、戸田三郎右衛門尉(忠次)が心ならずも一揆方に味方して佐々木上宮寺に籠もっていましたが、家康に忠義を尽くすために、家康軍を佐々木上宮寺に引きいれ外曲輪を焼いたと「三河物語」に記録されています。
宗光と忠次の関係は、以下のようです。(参考ウィキペディア)

忠次は宗光から5代後の人です。忠次の子孫が田原戸田家を継いだようです。

田原城関係年表(参考ウィキペディア)
文明12年(1480年)頃 戸田宗光築城
天文16年(1547年)戸田康光が今川の人質松平竹千代を織田に売ったため、今川に攻められ、落城。以後今川氏の代官が居城
永禄7年(1564年)本多広孝親子が入城。
天正18年(1590年)池田輝政の持ち城となり、伊木忠次が入城。
慶長6年(1601年)戸田尊次が入城。
寛文4年(1664年)三宅氏が入城。

さて、前段が長くなってしまいました。田原城は以下のように整備されたようです。

田原城整備の経過(「愛知の山城ベスト50」より)
明治23年、旧藩士全体の発起で三の丸公園として整備される。その後、渡辺崋山などの石碑が立てられる。
昭和9年、田原城の遠祖とされる児嶋高徳を祀る巴江(はこう)神社が建立される。
昭和33年、二の丸櫓跡に櫓風の文化財収蔵庫が整備される。田原城のシンボルとなる。
平成5年、田原城博物館が建設される。桜門、土塀等を復興する。桜門は写真及び江戸時代の渡辺崋山が描いたスケッチをもとにした。

田原城全体図。

桜門
はじめに見たのは桜門です。


この門の左右に堀がありました。

袖池

二の丸櫓
門をくぐると、二の丸櫓がありました。

二の丸櫓は、文化財収蔵庫となっています。

空掘
二の丸櫓から本丸跡(巴江神社)には土橋があり、その右側(東側)は、空掘りになっていました。戦国期の面影がありました。


巴江神社
本丸跡は巴江神社です。


この神社の境内の西側(写真の左側)を注意してみると土塁の跡がありました。

石灯篭の奥(写真の右側)です。

さらに、この神社の裏手には稲荷社が祀られておりました。その祠が最も高い位置にありましたが、私には、「物見櫓」がここにあったのではないかと思わせました。


画家としての渡辺崋山
最期に田原市博物館に入りました。田原城で忘れてはいけないのが渡辺崋山です。渡辺崋山といえば、「蛮社の獄」「慎機論」などで有名ですが、田原藩の家臣であったことは知りませんでした。また、それだけでなく画家でもあったようです。
彼が教科書にも出てくる「寺子屋」の絵を描いていたとは知りませんでした。6年生の社会科の学習で明治時代の学校と寺子屋を比較する授業で寺子屋代表がこの崋山の絵だったのです。

田原市博物館パンフレットより

飯野八兵衛を祀る神社  豊田市

2015年02月14日 06時58分22秒 | 豊田市
先日小原の方に用がありましたので、その途中の飯野というところによりました。飯野は、以前お伝えした豊田市舞木町「永田清左衛門」を首謀者の一人とする「飯野八兵衛事件」のあった場所です。

飯野秋葉神社にある飯野八兵衛の石碑

飯野八兵衛は、宝暦2年(1752年)に百姓の窮状と挙母藩の悪政を訴えるために挙母藩江戸屋敷に陳情を起こした百姓一揆の中心人物です。
飯野八兵衛を祀っている秋葉神社の案内板には、この事件について次のように記しています。


 八兵衛さんは、享保11年(西暦1726年)7月3日、三州飯野村に生まれた。母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った。重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わった。
その頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だった。けれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した。彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1,241人の中より305人を引き連れて、宝暦2年(西暦1752年)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった。
 江戸に於ける彼の活動は凄まじかった。恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げその上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れた。かくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた。最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についた。この時27才、まさに巨星落ちるの感があった。
 犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である。飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである。
 昭和59年12月1日 長居紀章 撰
            飯野区  建立


この石碑の文は長居紀章氏ですが、かれはこの飯野八兵衛を格調高く、かつ分かりやすい小説に著していました。それが「義人 飯野八兵衛」という本です。


なかなか本屋では見つからなくて、ネットで検索したところ刈谷の古本屋にあることが分かり購入することが出来ました。一読を勧めたいところですが、なかなかこの本にありつけないのが残念です。