愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小谷城(5) 滋賀県長浜市

2019年04月09日 06時44分37秒 | 滋賀県
大広間
黒鉄門を上がると、大広間が見えます。ここは、小谷城の曲輪の中で一番大きな曲輪です。建物があったことも確認されているそうです。おそらく浅井三姉妹は、秀吉や信長が攻めてくる中、お市の方とここの広間にいたことでしょう。そして、父である浅井長政より、お市と共に逃げるように勧められたときは、どんな気持ちだったのでしょうか。


大広間


大広間・本丸イメージ図(現地案内板)

大広間の奥の方が小高くなっていて、いわゆる本丸がありました。

本丸

本丸

本丸は、周りを石垣で囲っていました。今は草が伸び放題ですが、当時は石垣がそびえ、立派なお城だったのだろうと思います。長政、お市と三姉妹は、いよいよの時に、この本丸の方に上がり、少しでも敵から遠ざかろうとしたのでしょうか。想像は尽きません。

本丸の上

本丸は、「鐘丸」とも呼ばれていたそうです。案内板では、機能をよく表していると書いてあったので、本丸の中に鐘があり、時を知らせたり、敵が来たとか、城からのいろんな情報を家臣や城下に知らせたりする役割があったのだと思います。しかし、攻められたときは、まさに本丸、最後の砦だったのでしょう。

大堀切
この本丸の北は、大きな堀切になっています。

大堀切

本丸より南側の大広間、馬屋敷などの一連の曲輪群と本丸より北の曲輪群を切り離すためだそうです。本丸より北は、中丸、京極丸、小丸、山王丸・・・と曲輪が続きます。京極丸は、その名の通り守護である京極氏を居住させた曲輪、小丸は、信長との戦いの時、父久政が立て籠もった曲輪です。久政と長政は実はあまり仲が良くありません。久政から子である長政が無理やり実権を握った感じがあります。
そうすると、ここに堀切を作ったのは、外部の敵の侵入もありますが、内部からの侵攻(守護京極氏、父久政)から守るためだったのかも知れないなあと思いました。
しかし、信長という外敵が攻めてきたのです。おそらく父子共に力を合わせて、防戦に当たったのだろうと思います。

さらに驚いたのは、この堀切からの侵入を防ぐために本丸から土塁が伸びていて、二重の防御になっていることです。

本丸西の土塁

しかし、信長との戦いでは、秀吉に北の曲輪群を攻められ、京極丸を落とされました。京極丸は、久政と長政の結節点の役割をしていたので、久政と長政は分断され、やがて織田軍に攻められる中、久政は自刃してしまいます。そして、ついには本丸も織田軍によって攻められ、あえなく落城してしまいます。長政は赤尾屋敷に逃れ、そこで自刃します。

大堀切から上は、一昔前の曲輪になっています。
これから先は、またの機会にお伝えします。

小谷城 いったん終了