愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

美濃金山城(1) 岐阜県可児市

2019年08月19日 10時20分49秒 | 岐阜県
8月18日、岐阜県可児市にある美濃金山城を尋ねました。金山城は、斎藤正義という武将によって天文6年(1537)に築城されました。当時は、「烏峰城(うほうじょう)」と呼んでいました。しかし、斉藤正義は、天文17年(1548)家臣である久々利頼興から酒宴に招かれ、そこで暗殺されたそうです。

金山城の歴史を伝える案内板(本丸)

その後しばらく城主不在の時がありましたが、永禄8年(1565)織田信長の勢力が美濃に及び、森可成(よしなり)がこの城に入り、名前も金山城(兼山城)としました。金山城は、森氏によって、信長の美濃支配の拠点になりました。
その森可成は、姉川の戦いで戦死し、金山城は子の森長可(ながよし)が継ぎました。森長可はその活躍を織田信長に認められ、信濃国に領地を与えられ転封しました。金山城は、弟の森蘭丸が継ぎました。しかし、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が死に、森蘭丸も討死してしまいました。森長可も天正14年(1584)小牧・長久手の戦いで戦死してしまいます。

武蔵塚 (小牧・長久手の戦いで、同じ豊臣方の池田恒興とともに戦死しました。恒興は、「勝入塚」(池田勝入斎)として、森長可は、「武蔵塚」(森武蔵守)として石碑が建てられました。)

そこで、金山城は長可の弟の忠政が継ぐことになりました。忠政は、はじめは豊臣側についていましたが、豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いでは東軍として戦いました。
慶長5年(1600)森忠政は、信濃に転封となり、金山城は、犬山城城主石川光吉(三吉、貞清)の管理する城となりました。しかし、慶長6年(1601)破却されたそうです。


犬山城 (犬山城は、城主石川光吉の時、金山城を移築したとされていたそうですが、1961年の犬山城の解体修理の際、その痕跡が全く見つからなかったため、現在は否定されているそうです。(ウィキペディア))

さて、金山城は下から登ってもよかったのですが、この天候(暑すぎます)なので、出丸駐車場まで車で行くことにしました。

美濃金山城 つづく
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