愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

畔田城(1) 豊橋市

2020年04月18日 14時07分07秒 | 豊橋市
畔田城は、豊橋市にある城です。豊橋市と言っても田原市にかなり近い位置です。近くには戸田氏の高縄城(大津城)があります。

畔田城の位置

畔田氏について
城主は畔田氏です。豊橋市小松原町の東観音寺の寛正2年(1461)の棟札に畔田遠江守、弟修理亮の名前があるそうです。畔田氏が東観音寺の建築か修繕に関わっていたのでしょう。室町時代に畔田氏がこの地に勢力を持っていた証です。
その後、この地域に戸田氏の勢いが大きくなり、文明7年(1475)に戸田氏の支配下にはいります。しかし、東三河は今川氏の侵攻で、戸田氏、牧野氏、今川氏の三つ巴の争いになり、そこへ西から松平氏が加わるという複雑な様相を呈してきます。
天文・弘治の頃(1532~1558)、畔田氏は今川氏に属したようです。その今川氏も永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が討たれ、東三河から影響力を失っていきます。畔田氏も永禄7年(1564)の頃遠江平川郷に落ちていったそうです。
なお、畔田氏の関係する城は、畔田城の他に草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(同市畑ヶ田町)、中瀬古館(同市野依町)などがあったようです。

城下(しろした)町の由来
さて、この畔田城は海に面していて、本丸にいると、波の音が聞こえるほどです。その畔田城の北に城下という地名があります。城下町で「じょうかまち」ではなく、「しろしたちょう」と読みます。ネットの情報では、その昔、村人は城の南側の平地に居住していたそうです。「城下」の地名はここからきているそうです。しかし、波による浸食崩壊によって村人たちはしだいに高台へ移るようになり、今では城址が最も海に近くなったのだそうです。地図で見ても分かるように、畔田城の南は海です。この海に昔村があったとはとても信じられません。


城下町と畔田城

老人憩の家
城の近くに老人憩の家があります。ここに畔田氏の年表と縄張り図、畔田氏の概要が掲示してありました。縄張り図は、「愛知県中世城館跡調査報告」(以下「調査報告」)の図とほぼ同じものでした。ところどころ字や図の線が消えたりしていました。せっかくですので、リニューアルしてほしいと思いました。


畔田城縄張り図と由来の掲示


畔田史年表の掲示


畔田城イメージ図

「調査報告」を参考に描いてみました。まだ遺構があると「調査報告」には描かれていますが、実際は雑木林と藪がすごくて深入りができませんでした。

畔田城 つづく