愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

虎御前山(2) 滋賀県長浜市

2020年08月15日 05時03分01秒 | 滋賀県
伝丹羽長秀陣地跡
とても広い陣に出ました。丹羽長秀の陣です。さすが織田の中でも幹部クラスの家臣だけあると負いました。



丹羽長秀陣地跡

この後、古墳群が次々と現れ、虎御前山の砦がこうした古墳を利用して築かれたことがよく分かりました。

信長の軍用道
「信長の軍用道」という看板が目に入りました。
何万もの兵を動かし合戦に勝利するには、兵士の移動や兵器・弾薬の輸送、そして何よりも兵糧(兵士の食糧)の確保と調達が最も重要である。「信長公記」によると信長は、小谷城と対面する虎御前山の兵力を有効に配備し、自由自在な転戦を可能とするため軍用道を築いた。道幅は7.3mで敵方(東側)に面して高さ3.78mの築地(ついじ)を築いた。移動する兵や物資の数が外から見えないように徹底したのである。さらにこの築地塀の東側には濠を掘り、水を関(堰)入れて防備を一層厳重にしたという。宮部から三川にかけての道路が条里に沿わず斜めになっていることから、国友義一氏はかつての軍用道の名残を留めるものではないかとされている。



「信長の軍用道」の看板

信長が小谷城を攻めるために軍用道を作ったという話です。戦国時代は、軍隊が戦場に機敏に移動するために、かなり兵隊のための道路が整備されたらしいです。

伝滝川一益陣地跡
そして、滝川一益の陣地跡になります。

滝川一益陣地跡

近江は礎石建物が一般的?
この陣地跡を過ぎると、「礎石建物」の復元がありました。

礎石建物復元

礎石建物説明版

説明によると
当地に復元した礎石建物は、小谷城城跡をはじめ太尾山城跡、鎌刃城跡などでも発掘されており、当時の山城においてごく一般的な主要施設であったといえる。復元に用いた礎石は大津市伊香立の生津城(1560年頃)跡で発掘されたものであり、4間四方(1間1メートル)の建物(4メートル四方)であった。側柱の中に束柱があり、床張りの高床建物であったことが分かる。このため一部床を復元しそれをベンチとした。前面間近に横堀があり、東には巨大竪堀がある。そして西に琵琶湖と竹生島が遠望でき、北側には堀秀政の陣が認められる。この場所は虎御前山城跡のなかでも要の位置を占めたといえる。


礎石建物復元説明図(図解の部分)

以前高知県の岡豊城を訪ねたとき、「礎石建物は高層の建物が可能になる。また、屋根も瓦ぶきが可能になる」ということを教えていただき、いわゆる天守に相当する建物を造ることが可能になると教えていただきました。そういう点で、礎石建物は、戦国時代の建物の歴史の画期をなすことだと言われました。

でも、この説明だと「礎石建物は、小谷城城跡をはじめ太尾山城跡、鎌刃城跡などでも発掘されており、当時の山城においてごく一般的な主要施設であったといえる。」といいます。
えっ、本当?
この前行った足助城は掘立柱で、それでも2階建ての建物「高櫓」がありました。近江では山城に礎石建物の主要建物が一般的にあったのでしょうか。「当時」というのがいつ頃なのか、詳しく聞きたいと思いました。

虎御前山 つづく