愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(51) 松平記

2023年12月04日 17時00分28秒 | 松平記

松平記p51

翻刻
し其比家康の御前御子竹千代殿駿府に人質に御座候已
に生害に及ハんとする処に関口刑部殿ハ竹千代殿にハ
祖父にて御座候是ハ義元のいもうとむこなれハいろいろ
御詫言被成いまになからへ御座候を岡崎衆石川伯耆守
来り色々なけき申候て関口殿を頼ミ証人に致し和談に
仕り鵜殿か二人の子と竹千代殿と取替候て岡崎へ返し
入奉る是ハ御元服有て三郎信康と申たる若殿の御事也此後
猶も御手きれ被成駿河と御不通の由氏真大に怒給ひ御しゅう
と関口刑部殿切腹申付らるる、是ハ氏真のおばむこなれども
家康の御しゆうと成とて如此彼娘家康の御前ハ三河へ御座

現代語
駿河衆は大変困り、その頃家康の奥方と嫡男竹千代は駿府に人質となっていた。まさに殺害しようとするその時に、関口刑部殿は竹千代の祖父であり、今川義元の妹婿であったので、いろいろと言い訳や詫び言を言って、命をながらえてきた。そこへ岡崎から石川伯耆守が来て嘆願した。関口殿を証人として和談となった。鵜殿の二人の子らと竹千代殿とを交換し、岡崎方に返した。この竹千代とは元服して三郎信康と申した若殿の事である。この後お手切れになり、駿河と連絡を取らなくなったとのこと。氏真はおおいに怒り、家康の舅である関口刑部殿に切腹を申し付けた。関口は氏真の叔母の婿なれども家康のしゅうとでもあった。家康の奥方は三河へ行き、(築山という所に住まわれた)

コメント
まず、家康、奥方(瀬名、築山殿)、竹千代(嫡男信康)、関口刑部、今川義元、今川氏真の関係を図にします。

関口刑部関連家系図(色の部分が人質交換の対象)


また、鵜殿関係の家系図は以下のようになります。

鵜殿関連家系図(色の部分が人質交換の対象)

鵜殿氏は、今川義元の妹(関口刑部の妻とは別人)を娶り、今川氏とは親戚関係にありました。蒲郡の上之郷城を守っており、三河支配の拠点的存在でしたが、徳川家康に攻められ、鵜殿長照はこの戦いで討死してしまいました。そして息子の氏長、氏次が徳川方に生け捕りにされたわけです。