松平記p56
翻刻
組打に高名しける、其日城没落し糟谷ハ駿河へ帰る、長澤
御手に入也
一 永禄五年の秋の末、三河の住人菅沼藤十郎取手を致し、兵
粮の為に佐々木の上宮寺へ行て、もみをほして置たるを
取て城へ帰る、この寺ハ三河国の三ケ寺の院家の其一也、残
て二ヶ寺(野寺・針崎)の御坊達寄合て談合しけるハ、此寺ハ当国
の本地にて開山上人より以来久敷不入の地也、か様の甲
乙人のらうせきすへき所に非ず、已来の為尤戒へしとて
菅沼が所へ行、土民共を催し菅沼が内の者共を打ふせ雑
穀あまた取返して帰る、菅沼大に怒、喧嘩を起しけれども
(不叶)
現代語
(渡辺半蔵が)組み伏せ、手柄を立てた。その日、城は没落し、糟谷善兵衛は駿河今川の下に戻った。長澤の城が家康の手に入った。
一 永禄5年の秋、三河の住人である菅沼藤十郎という者が砦を作り、兵粮のために佐々木の上宮寺に行って、干してあるもみを取って城へ持ち帰った。佐々木上宮寺は三河国三ヶ寺の一つである。残りの二つ野寺本證寺と針崎勝鬘寺の坊主たちが寄り合って話すには、「この寺は三河国の本地にて開山して以来の不入の地になっている、このように野蛮人が狼藉をするようなところではない、今後のためにも戒めをすべきである」と、そして、菅沼のところへ押し寄せ、農民たちを集め、菅沼の身内のものを打ち伏せ、雑穀をたくさん取り返して帰った。菅沼は大いに怒り、争いを起こしたけれども、(寺には勝てなかった)
コメント
東三河の家康独立戦争の話から、三河一向一揆の話になりました。一揆の発端が述べられています。しかし、肝心の菅沼藤十郎が誰なのか特定できず、その実在が疑われているそうです。ここでは場所が佐々木上宮寺ですが、「三河物語」では場所が本證寺になっています。発端となった争いも家康の家来の一部が本證寺内の鳥居という商売人の米などを蹴散らかすなどの乱暴をたびたび働いたので、鳥居らの仲間が待ち伏せをして返り討ちにした事が発端となったように描かれています。どちらにしても共通していることは、上宮寺、野寺本證寺、針崎勝鬘寺には「不入」の特権が認められており、その特権が乱暴に踏みにじられたことが事の発端になっているということです。
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