松平記p18
翻刻
一 三左衛門生害之後尾州衆力を落し、人数をかけ猶岡崎を
取らんと評定す。此由駿河へ聞えしかハ、今川殿より加勢
として遠州衆党岡崎へ参る、其時今川殿より廣忠へ御人
質を可給との儀也、是によりて廣忠の惣領竹千代殿七歳
に成給ふを駿河へ証人に御越被成候、駿河への御供に重
田と申者参しに、此者少相煩道(?)にて遅々致す程に田原の
住人戸田弾正弟、戸田五郎と申者しほ見坂にて竹千代殿
の〇物を奪とり、船にて尾張の国へ参る、此時重田ハとら
るましとて戸田と〇〇に切合、そこにて討死す、扨船にの
せ申尾州へ参り、古わたりの城主織田弾正殿へ差上岡崎
現代語
一 松平三左衛門忠倫が殺害され、尾州衆力を落し、しかし兵を集め猶岡崎城を攻め取ろうと相談をしていた。このことが駿河の今川義元に伝わり、今川殿より加勢として遠州の兵が岡崎に来た。その時、今川義元より人質を出すようにと松平廣忠に話があった。廣忠は、惣領である竹千代(後の徳川家康)7歳を証人(人質)として駿河に送ることにした。その御供として重田と申す者が付いたが、この者はすこし「相煩道」(?)にて遅れ気味となったところへ、田原の住人戸田弾正の弟戸田五郎と申す者がしおみ坂にて竹千代殿を奪い取り、船にて尾張の国へ行った。重田は竹千代を取られまいと戸田と切り合いになったが、そこで討死となった。戸田は、船に竹千代殿を乗せ、尾州へ参り、古わたりの城主織田弾正殿へ差し上げた。岡崎の証人(人質)となった。
コメント
まず、調べても分からなかったくずし字
難くずし字1
「無」とすると、「無物」となり、「竹千代殿の無物を奪とり」とは、何を奪ったのか意味不明になります。
難くずし字2
「前」に似ていますが、「前」は右に点があります。下は繰り返し「々」だと思います。
意味の難しい語句
「相煩道」ってどういう意味でしょう?
松平三左衛門忠倫の暗殺事件の次は、松平竹千代(後の徳川家康)人質強奪事件です。松平廣忠が駿河今川義元の援軍を受ける代わりに人質として嫡男竹千代を駿河に送ろうとしたのですが、途中で戸田五郎なる人物が人質を強奪して尾張の織田弾正忠信秀に差し出したという話です。
戸田弾正は戸田康光と思われます。一般にこの人質強奪は、戸田康光がやったとされていますが、「松平記」では戸田弾正の弟戸田五郎がやったことになっています。戸田五郎が誰なのか、調べましたが、分かりませんでした。
また、竹千代の護送は金田という人物と言われていますが、「松平記」では重田となっています。
さて、この人質強奪事件には、それを否定する説もあります。天文16年9月に岡崎城は織田に攻め落とされており(本成寺「古証文」)、松平廣忠は降伏の証として、竹千代を織田に送ったのではないかといいます。(柴裕之氏の説、ウィキペディア)
この説は、「松平記」と合致しません。このブログ「松平記(17)」で、松平廣忠は、天文16年10月20日に筧平三郎に対して感状を出しています。その説明の中で、筧平三郎は松平三左衛門忠倫を殺害した後に岡崎に戻った旨のことが書かれています。天文16年9月に岡崎城が攻め落とされていれば、筧は岡崎城には帰れませんし、織田に降参した松平廣忠が織田に味方していたものを殺害した筧に感状を出すことはできません。
しかし、史料的には前述(本成寺「古証文」)の方が確からしいので、「松平記」は、後世の創作が入っている可能性が高いと思われます。「三河物語」にも「松平記」と同様の記述がありますが、これは「三河物語」が「松平記」を参考にしたのではないかと思われます。
いずれにしても、竹千代を戸田五郎が奪って織田に連れて行ったというのは作り話っぽいです。
いつも参考にさせてもらってます。
「相煩、道にて」
「乗物」「散々」
ではないでしょうか?
分からないくずし字を教えていただき、ありがとうございました。とても助かりました。そして大変勉強になりました。これからも、またよろしくお願いします。