愛知の史跡めぐり

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松平記(22) 松平記

2022年04月15日 08時47分52秒 | 松平記
松平蔵人信孝、明大寺を攻める

松平記p22

翻刻
給う者なから一手にて成とも、岡崎をとらんとて五百余
人明大寺表に出張の間、酒井雅楽助石川安芸守馳向て対
陣可有候とて出勢す、されとも味方小人数、敵大勢なれハ
謀をめぐらし敵を退治せんと評議有処に大久保五郎右
衛門、石川新九郎両人御意を伺ひ罷、射手七十人をえらひ
藪陰小塚の間に伏かくれ侍ける程に、蔵人殿ハ明大寺を
出てかふと山に御出之時分、七十余人一同におめいて懸け
り、一矢射と明大寺の町へ入、菅生の河原へ切ぬけ、又取て
返す、蔵人殿追懸給うか、町に火をかけ引取候ハバ苦しか
るましきに、町に備てのき給ハす、両人両方より二わけに

現代語
(松平蔵人信孝殿は尾州衆が打ち負けて力を落し)給うものながら、自分一人になっても岡崎を攻め落とそうと五百余人で明大寺方面に進出してきたので、酒井雅楽助、石川安芸守が駆けて向かい、蔵人と対陣しようとした。しかしながら味方は少人数、敵は大勢なので、作戦を練って敵を退治しようと話し合っているところに、大久保五郎右衛門、石川新九郎の両人が(廣忠の)命令を受けて、射手七十人を選び、藪陰・小塚の間に伏して隠れていると、蔵人信孝殿は明大寺を出て、かぶと山に現れたときで、七十余人が一同にわめきながら一矢うたんと明大寺の町へ入った。菅生の河原へぬけ、また取って返した。蔵人信孝殿は追いかけたが、町に火をかけ、引き返せばいいものを町から退くことをしなかった。大久保五郎右衛門、石川新九郎両人は二手に分かれ、・・・・

コメント
今回は、松平信孝が主人公です。松平信孝は阿部大蔵が嫌いで、彼への恨みが謀反の一つの原因になっていると思いますが、その阿部大蔵はもう出て来ません。信孝は、ただ松平に反対するだけの人のようになっています。いろんな人が登場しています。酒井雅楽助、石川安芸守は駿河に呼び出されたとき、信孝の横領について主張し、信孝を追放した家臣団の一人です。(第12回)大久保五郎衛門は大久保忠俊、石川新九郎は、石川正綱というそうですが、それ以上分かりません。
ここで不思議なことは、信孝が明大寺を出て、いきなりかぶと山に行ってしまうところです。「蔵人殿ハ明大寺を出てかふと山に御出之時分」のところです。「明大寺」「かぶと山」「菅生川」位置関係は図のようになり、信孝がかぶと山に行くには菅生川を渡らなければなりません。少し無理な気がします。

「かぶと山」「菅生川」「明大寺」の位置関係
(グーグル地図を加工)

また、弓矢隊が明大寺に入り、菅生川まで行ったと思ったら、また引き返すという奇妙な行動をしています。

明大寺は元々岡崎城があったところで、それなりに町として発展していたところだったのかも知れません。岡崎城は松平清康の時に明大寺から現在の菅生川北岸に移動したようです。


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