みよし市
今日は、方向一転。みよし市に行きました。みよし市とは、旧西加茂郡三好町です。人口が増えて、市政に移行するときに、「三好市」が既に徳島県にあったので、やむなくひらがな表記にしたようです。私なんかは、三好町といったほうがぴんと来るのですが、2010年「みよし市」となりました。
みよし市に、あまり有名な史跡は聞いたことがありませんでした。そこで、「愛知の山城ベスト50」を開いてみたら、「福谷城」が見つかりました。「ふくたに」ではなく、「うきがい」と読むそうです。
さっそく、近場でもあるので、行ってみることにしました。
福谷城
城主は後に徳川四天王の一人と言われた酒井忠次、地元の土豪原田氏重の名が伝えられ、尾張、三河が緊張関係にあった16世紀中葉には、柴田勝家を将とする織田方と激しい攻防があり、多数の死傷者があったと伝えられています。(現地案内板より)
確かにみよし市は尾張と三河の境目にあります。刈谷の水野氏もそうでしたが、尾張の織田、三河の今川、松平との間に立って大変だったことがうかがわれます。

南のほうから福谷城を見る

現地案内板より
Ⅰ郭
さて、福谷城は大きく分けて、Ⅰ郭とⅡ郭からなります。(小さな郭を入れると、5つあるそうです。)Ⅰ郭はきれいに整備されていました。

Ⅰ郭北側の土塁です。なだらかに盛り上がっていました。その奥の赤い屋根は城山保育園の屋根です。
また、Ⅰ郭には、土坑と呼ばれる遺構もありました。(しかし、土坑とは何なのか不明です。「ベスト50」に説明がないのでわかりません。)

細いあぜ道のような者が十字形にありました。

土坑という名で紹介している「ベスト50」の図。
Ⅱ郭
次は、Ⅱ郭を探検しました。なんとⅡ郭に建造物がありました。しかも廃屋のようです。ネットでは、神社になっているとありましたが、もう使われていないようです。

Ⅱ郭にあった建物

竹が自由に生い茂るⅡ郭
どっちにしても、Ⅱ郭は全体が竹やぶで、およそ遺構を確認することはできませんでした。私有地なのでしょうか。それとも行政の怠慢でしょうか。Ⅰ郭がきれいに整備されていましたので、Ⅱ郭のほったらかしは、すこし驚きました。(Ⅱ郭のほうが主郭というのに)
石垣の遺構?

Ⅱ郭の土塁
これは、Ⅱ郭の土塁です。よく見ると、石垣のようなものが見えます。でもこの時期に石垣で土塁を作ったことは考えられないと思いますが、神社を作ったときのものでしょうか。また、「ベスト50」では、この土塁が昔は古墳と考えられていたが、調査の結果福谷城の土塁であるとわかったと記してありました。
ところが「ベスト50」で、「城門か」と書いてあるところに、また、石垣らしきものがありました。

本当に、福谷城の石垣だったらおもしろいです。
さて、この城の近くに福谷寺というお寺があったので、行ってみました。真宗大谷派です。その由緒を読んでいたら、偶然知人と同じ名前を発見してしまいました。感動でした。
今日は、方向一転。みよし市に行きました。みよし市とは、旧西加茂郡三好町です。人口が増えて、市政に移行するときに、「三好市」が既に徳島県にあったので、やむなくひらがな表記にしたようです。私なんかは、三好町といったほうがぴんと来るのですが、2010年「みよし市」となりました。
みよし市に、あまり有名な史跡は聞いたことがありませんでした。そこで、「愛知の山城ベスト50」を開いてみたら、「福谷城」が見つかりました。「ふくたに」ではなく、「うきがい」と読むそうです。
さっそく、近場でもあるので、行ってみることにしました。
福谷城
城主は後に徳川四天王の一人と言われた酒井忠次、地元の土豪原田氏重の名が伝えられ、尾張、三河が緊張関係にあった16世紀中葉には、柴田勝家を将とする織田方と激しい攻防があり、多数の死傷者があったと伝えられています。(現地案内板より)
確かにみよし市は尾張と三河の境目にあります。刈谷の水野氏もそうでしたが、尾張の織田、三河の今川、松平との間に立って大変だったことがうかがわれます。

南のほうから福谷城を見る

現地案内板より
Ⅰ郭
さて、福谷城は大きく分けて、Ⅰ郭とⅡ郭からなります。(小さな郭を入れると、5つあるそうです。)Ⅰ郭はきれいに整備されていました。

Ⅰ郭北側の土塁です。なだらかに盛り上がっていました。その奥の赤い屋根は城山保育園の屋根です。
また、Ⅰ郭には、土坑と呼ばれる遺構もありました。(しかし、土坑とは何なのか不明です。「ベスト50」に説明がないのでわかりません。)

細いあぜ道のような者が十字形にありました。

土坑という名で紹介している「ベスト50」の図。
Ⅱ郭
次は、Ⅱ郭を探検しました。なんとⅡ郭に建造物がありました。しかも廃屋のようです。ネットでは、神社になっているとありましたが、もう使われていないようです。

Ⅱ郭にあった建物

竹が自由に生い茂るⅡ郭
どっちにしても、Ⅱ郭は全体が竹やぶで、およそ遺構を確認することはできませんでした。私有地なのでしょうか。それとも行政の怠慢でしょうか。Ⅰ郭がきれいに整備されていましたので、Ⅱ郭のほったらかしは、すこし驚きました。(Ⅱ郭のほうが主郭というのに)
石垣の遺構?

Ⅱ郭の土塁
これは、Ⅱ郭の土塁です。よく見ると、石垣のようなものが見えます。でもこの時期に石垣で土塁を作ったことは考えられないと思いますが、神社を作ったときのものでしょうか。また、「ベスト50」では、この土塁が昔は古墳と考えられていたが、調査の結果福谷城の土塁であるとわかったと記してありました。
ところが「ベスト50」で、「城門か」と書いてあるところに、また、石垣らしきものがありました。

本当に、福谷城の石垣だったらおもしろいです。
さて、この城の近くに福谷寺というお寺があったので、行ってみました。真宗大谷派です。その由緒を読んでいたら、偶然知人と同じ名前を発見してしまいました。感動でした。

福谷城、’ふくがや’が訛って’ふきがい’になったのでしょうか?
地名は、本当に面白いですね。地名の表記や、読み方でその地域の歴史が分かってくることもあって、ゆるがせにできないですね…。
さて、「土坑」とはなんですか、ということですが、我々の専門用語で、はっきりした用途は分からないが、当時、穴を掘って何かの目的で使用した遺構、とでもいうものです。
多くは地下蔵、貯蔵庫に使ったものと考えられます。
それにしても愛知には、こういう中世、戦国時代の城址が本当に多く残っていますね。
現地学習にもってこい、ですね。
’ふきがや’から’うきがい’が抜けました。
コメントありがとうございます。
全く「うきがい」などと読めないです。
なぜ「うきがい」なのか、わかりません。
「うきがい」という呼び方が先にあったのか、「福谷」という漢字が先にあったのか、それもわかりません。
ネットで調べると、「浮貝」という字も古書にみうけらることもあるそうです。もちろん、「福谷」という漢字で登場することのほうが多いようですが。
愛知県では、前に訪れた「設楽」=「したら」とか、「深溝」=「ふこうず」とか、他にもいろいろ難しい読み方の地名があります。
地名は本当におもしろいです。
土坑について、コメントいただきありがとうございました。
ただ、土坑というのは、わたしも漢字からして「穴」あるいは溝だと思うのですが、現地での遺構の様子は、写真でもわかるように穴、溝というより凸状になっているのです。遺構を確認した後に埋め戻したのでしょうか。すいません。もしよろしかったら、教えてください。