近藤景春が籠った城
桶狭間の戦いの時、沓掛城主近藤景春は今川に味方していましたが、沓掛城は今川家臣の浅井政敏に渡し、自身は高園城という所に籠ったとされています。そして、今川義元が討たれ、今川軍が総崩れになると沓掛城に戻り、織田軍と戦ったとされます。しかし、戦いに敗れ、討死をしたそうです。
高園城は沓掛小学校の近くの薬師が根というところだそうです。早速行ってみました。

一之御前社
沓掛小学校のすぐ東には一之御前社という立派な神社がありました。室町時代、沓掛城主の娘がここの清水で喉を癒し、安産することができたと伝えられていて、安産祈願の神社となっているそうです。

薬師が根から南東方面を見下ろす
この神社のさらに東は畑が広がっており、高台になっていました。南東方面が見渡せました。木を払えば、南の方も見えていたと思います。ただ、西の方鳴海方面は沓掛城の山があり、見えませんでした。
桶狭間の戦いの時、沓掛城主近藤景春は今川に味方していましたが、沓掛城は今川家臣の浅井政敏に渡し、自身は高園城という所に籠ったとされています。そして、今川義元が討たれ、今川軍が総崩れになると沓掛城に戻り、織田軍と戦ったとされます。しかし、戦いに敗れ、討死をしたそうです。
高園城は沓掛小学校の近くの薬師が根というところだそうです。早速行ってみました。

一之御前社
沓掛小学校のすぐ東には一之御前社という立派な神社がありました。室町時代、沓掛城主の娘がここの清水で喉を癒し、安産することができたと伝えられていて、安産祈願の神社となっているそうです。

薬師が根から南東方面を見下ろす
この神社のさらに東は畑が広がっており、高台になっていました。南東方面が見渡せました。木を払えば、南の方も見えていたと思います。ただ、西の方鳴海方面は沓掛城の山があり、見えませんでした。
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