愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

森浩一文庫 春日井市

2014年01月04日 14時34分14秒 | 春日井市
古代史の大家 森浩一氏
 2014年最初に見学したところは、春日井市です。
ある記事を見つけたからです。


 それは、春日井市に「森浩一文庫」というものがあるというものです。
森浩一といえば、先日亡くなられた考古学の有名な学者さんです。

 私が持っている本で
新人物文庫「ここまでわかった邪馬台国」

という本がありますが、その中で
「これから邪馬台国を学ぶ人へ」という序文を書いている人でした。

原文を読め、現地へ行け
その中で森氏は

「倭人伝」を原文で読むこと
それから、「倭人伝に出てくる場所に行ってみること」


を強調されていました。
なるほどその通りだと思いました。
このことは、邪馬台国、古代史に限らず、歴史を学習する者にとって大切なことであると思いました。

森氏と春日井市
 その森氏と春日井市がどんな関係があるのか、大変興味を持ちました。
森浩一文庫の開設のいきさつについて、「春日井シンポジュウム20年のあゆみ」というパンフレットに記述されていました。


 平成22年10月2日、春日井市立中央公民館内に「森浩一文庫」が開設されました。「春日井シンポジュウム」の企画立案に大きな役割を果たされてきた考古学者の森浩一氏は、「地域学」重視の立場から「東海学」を提唱され、その確立の一助になればと、多数の蔵書を春日井市に寄贈されました。全国各地の発掘調査報告書をはじめ、森氏の幅広い研究を物語る考古学・歴史学・民俗学を中心とした書籍、その他博物館等の展示図録や考古学・古代史・各地の地域史を扱う雑誌など一般の図書館には無い貴重な資料が数多くあります。また、森氏と親交のあった作家の松本清張氏や司馬遼太郎氏の書簡などもあり、現在、約1万7千点の書籍、資料を所蔵しています。


森浩一文庫の中の様子

森浩一文庫
 中に入ってみましたが、たしかに素晴らしい本の蓄積でした。8畳から10畳ぐらいの部屋でしょうか、発掘調査書が都道府県ごとにずらっと並んでいました。やはり奈良県や大阪府がが多かったです。愛知県の調査報告書もありましたが、肝心の味美二子山古墳は見つけられませんでした。(私の見落としだと思います。)知っているところでは豊田市の大塚古墳の発掘調査書がありました。中をひらくと、発掘された遺品が写真や図でずらっと描いてあって、こんなにたくさんお宝が出たんだ・・・と感心しました。
 驚いたことに、中国や韓国の発掘調査書・書物も並んでいました。森氏は中国語や韓国語を読めたんですね、きっと。古代の古墳や文化を調べていけば、当然中国、韓国とのかかわりが出てくると思いますが、それを森氏は原文で読んでいたようです。先に森氏の言葉を引用しましたが、まさに有言実行でした。

 春日井市は、古代史のメッカであると感じました。
コメント (4)
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無量寿寺 西尾市

2014年01月02日 16時22分07秒 | 西尾市
みなさん 明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします



無量寿寺山門

西尾平坂の無量寿寺
 さて、今年一番の記事は、無量寿寺です。
 同じ名前のお寺をずいぶん前に紹介した事があります。それは、知立市の無量寿寺です。かきつばたで有名なお寺です。

 今回のお寺は、三河一向一揆ゆかりのお寺です。西尾市の平坂というところにあります。三河三ヶ寺は佐々木上宮寺(岡崎)、針崎勝鬘寺(岡崎)、野寺本證寺(安城)ですが、これにあと4つ加えて、三河七ヶ寺ということがあるそうです。(浄妙寺、願照寺、無量寿寺、慈光寺)
 無量寿寺は、七ヶ寺の中に入っています。

寺内町があった無量寿寺
 無量寿寺に注目するのは、ここに寺内町があったらしいからです。寺内町とは、一向一揆研究者の新行紀一氏によれば、

 「地域領主から、「不入」を認められ、警察、裁判権が行使されない検断権不入のみならず、経済的不入、すなわち寺内に対する諸公事免除、座公事免除、徳政令適用除外、質(債権)強制取立て禁止などの、全体として「大坂並」特権といわれる諸特権を保持してた」(岡崎市史)

エリアのことです。そして、
 「現在三河国内で本願寺派の寺内が検出できるのは本宗寺、上宮寺、勝鬘寺、本證寺、無量寿寺である。」
と述べています。


寺内町の大まかな範囲

 無量寿寺を中心として、南北に2.5町、東西に1.5町ぐらいのエリアだったらしいです。(1町は大体100メートルぐらいです)なので、南北250メートル、東西150メートルぐらいでしょうか。
 地図で見える水色の部分が環濠または自然の川(を利用した濠)です。歴史地理学者の金井年氏によれば、地図の左側の自然の川と平行して南北に走っている道路の脇に水路があり、それも元は外堀だったのではないかと指摘しています。(金井年「三河の寺内町プラン」)
 確かに無量寿寺の周りの集落は、道が細く昔からのものであることが感じられました。

鼓楼発見
 境内の中には、鼓楼がありました。これを見ると、本證寺のように三河一向一揆を戦ったお寺なんだなあと実感します。


 鼓楼の前に車が止まっていますが、訪れたのが12月30日で、お寺の裏の墓地にお花をお供えして見える方が何人か見えたので、その方のものだと思います。お寺もお正月の準備をしていました。
コメント (5)
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