愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

観音寺城(2) 滋賀県東近江市

2014年03月22日 09時05分59秒 | 滋賀県
伝三国丸
 観音寺城で一番高い地点と思われる伝三国丸に着きました、ここは、三国が見えるところということで、三国丸と付けられたようです。

伝三国丸の石垣

矢穴
 このあたりの石垣に「矢穴」がありました。

石垣の下が半月状に欠けていました。

観音正寺(かんのんしょうじ)
 観音寺城の名前の由来となった観音正寺(かんのんしょうじ)でお昼を食べました。観音正寺の仁王様は、青空の下にありました。だいたいは、山門の建物があり、その中に立っているのですが、ここのお寺は、青空の下に立っていました。

観音正寺の仁王様(ん形)


(あ形)

伝本丸跡
 昼食の後は、いよいよ本丸です。本丸に行くときに立派な石段がありました。この石段の脇には側溝があったようです。

石段の跡

本丸跡の掲示

食い違い虎口
 本丸は、西側の虎口が、「食い違い虎口」と呼ばれる工夫がありました。敵の侵入を防ぐための工夫です。

食い違い虎口

観音寺城(1) 滋賀県東近江市

2014年03月17日 19時07分20秒 | 滋賀県
東近江市
 3月16日(日)「若越城の会」の見学会に参加しました。今回の見学地は、滋賀県東近江市の観音寺城です。東近江市は、米原と大津のちょうど中間の辺りのところです。2005年2月11日に八日市市、神崎郡永源寺町・五個荘町、愛知郡愛東町・湖東町の1市4町が新設合併して誕生した市で、2006年1月1日には神崎郡能登川町・蒲生郡蒲生町を編入したそうです。

A地点が観音寺城です。

目立つお寺 弘誓寺
 集合場所は、「三方よし」という観光協会でしたが、予定より早くついたので、近くの「弘誓寺」に行くことにしました。集合場所に近づくとすぐに目に付いたお寺だったからです。お寺は、真宗大谷派でした。

弘誓寺(ぐぜいじ)山門

 太鼓楼がありました。

弘誓寺太鼓楼

近江商人の町
 寺の周りには、堀がありました。堀には、流れがあり、よく見ると「ウグイの子」が泳いでいました。堀は、お寺だけではなく、このあたりの町並み全体にありました。この町並みは、「近江商人町」というそうです。いわゆる町方の商人街ではなく、村方の商人街だそうです。

 10時案内の人の説明を受け、さっそく登城です。案内の方は、松下浩氏(滋賀県安土城城郭研究所)です。先日行われた学習会の講師の方です。
 しばらく登ったところで、観音寺城の支城のお話をしていただきました。観音寺城の北の守りとして和田山城と佐生城があったそうです。写真の右が和田山城です。

支城 和田山城

 観音寺城は、たくさんの曲輪があります。


伝布施淡路丸 石垣と石塁
 図が小さくてわかりにくいのですが、初めに登ったところは、伝布施淡路丸という曲輪です。どうして伝という字がつくというと、確か証拠がなく言い伝えられているだけだからだそうです。布施淡路という家臣の宅地のようです。周りを写真のように石垣で囲んでありました。石垣と石塁は、どうちがうかが話題になりましたが、石垣は、裏込め石といって、面(おもて)の巨石の裏に、それを支えるやや小さめの石があるそうです。それがあるものは石垣で、それがないものは石塁というそうです。観音寺城の石垣には、裏込め石はありませんので、石塁ということでしょうか。

伝布施淡路丸の石塁

佐々木城址の石碑 心無いいたずら
 またしばらく登ると、「佐々木城址」という石碑がありました。観音寺城は六角氏のお城です。ただ六角氏は、もともと鎌倉時代は佐々木氏と名乗っていて、そこから分かれて六角氏になったそうです。もともとが佐々木氏なら、観音寺城を初めから佐々木城としたほうがよかったのではないかと皆さんがおっしゃっていました。さらに、この石碑には問題があり、誰が彫ったのか、「へのへのもへじ」のいたずらがありました。

佐々木城址の石碑


心無い人のいたずら

亀城公園 刈谷市

2014年03月11日 17時15分48秒 | 刈谷市
 刈谷市に亀城公園という公園があります。字の通り、昔ここにお城があって、亀城と呼ばれていたところです。刈谷城とも言います。先に紹介した緒川城主、水野忠政の築城です。

亀城公園の一角にある「刈谷城址の碑」

 三河一向一揆では、水野重忠と水野信元が登場しますが、水野信元は、刈谷から出兵しているようです。したがって水野信元のころには刈谷城が水野氏の居城ではないかと思われます。

亀城公園の一角にある本丸跡の石碑

 公園は、よく整備されていて、きれいな堀がありました。

お堀

 刈谷市には亀城公園の整備計画がありました。

公園に立てられていた整備計画の概要

 江戸時代の古図では、下のようになっています。

刈谷市郷土資料館のパンフレットより

 この図でいうと、本丸のあたりを復原して再整備するようです。

 楽しみです。

渡(わたり)城跡 岡崎市

2014年03月10日 17時24分09秒 | 岡崎市
 しばらく記事をアップしていませんでしたので、つなぎで今まで訪ねた所で、記事にしていないところを紹介したいと思います。


渡城址の石碑(右の柱状の石碑)

渡(わたり)城跡
 渡(わたり)城跡という史跡があります。矢作川の近くです。渡という名前にありますように、ここは、矢作川を渡る渡し舟が停まるところだと考えられます。渡し場として栄え、そこに城ができたのではないかと思われます。その城の主が鳥居氏なのです。


鳥居源七郎忠宗の石碑

家康の忠臣、鳥居氏
 鳥居氏の中の鳥居忠吉という人物は、その碑文によると、家康が今川家に人質として取られていたとき、岡崎に家康が帰ってきたときのために、兵器や兵糧蓄えていたそうです。また、忠吉の息子の元忠は、人質として今川にいた家康に仕え、関が原の合戦では、石田三成の大軍と戦って戦死したとして、「三河武士の鑑」となっているそうです。同じく、忠吉の息子の鳥居源七郎忠宗は、松平広忠に仕え、織田信秀が矢作川に攻めてきたときに、渡城近くで奮戦し、戦死しています。そして鳥居氏は代々松平、徳川氏に仕えた忠臣ということになっています。


渡古戦場跡

商売人、鳥居氏
 しかし、一方で鳥居氏は、三河一向一揆を記録した「永禄一揆由来」(勝鬘寺文書)に、三河一向一揆の発端の事件に関係した人物として登場します。

 家康尊公岡崎之御城主たりし時、渡リ村之住人鳥居等に分際宜き買人あり、本願寺宗徒也、古より今に至まて故有古跡大地とあれハ、守護不入にして、何事も他所の支配をうけさる故、野寺本證寺中を借り、家作をいたし、蔵を建、金銀米銭の走りを仕る処に、岡崎の御家中衆意恨有之方、寺中へ馬を乗り入れて、鳥居か庭に干し置し米穀等を散々に蹴散らかし、其他放埒の振舞、幾々度々に重なれハ、此段無念至極に存し、寺中の同宿・百姓等、鳥居一類相集リ、棒ちきりきを持て出、寺中ヘ入れしと追払ひ、乗り放置く馬を取、尾髪を切て追放せハ、勢いたけき武士なれ共、多数に不勢不叶して、我か身に疵を蒙らしと、放々逃てそ退そかる
(中略)
(岡崎家中の家臣たちは)右の恥辱を雪くべしと仰を蒙り、悦ひて人数を率し押寄セて、僧俗共ニ打着し、鳥居か庫蔵を打破り、財宝悉散乱し、金銀青銅を投捨つれは、本より下賎之者共、手々に取て逃にける、
(後略)
「永禄一揆由来」(勝鬘寺文書)


 「永禄一揆由来」によれば、鳥居等の一人は、羽振りのいい商人であり、守護不入の地である本證寺で、家作(アパート業?)や高利貸しなどを営んでいたようです。「渡り村の住人鳥居等」とあるので、上記鳥居忠吉となんらかの関係があるのではないかと想像されます。
 そして、この鳥居等の一人に対して岡崎の家中(家康の家臣)に「意恨有之方」がいたということです。おそらく、この家臣は鳥居さんに借金でもしていて、取り立てで責められていたのかもしれません。その「恨み」をはらそうと、「守護不入」の本證寺に乱入し、狼藉を働いたのです。しかも「幾々度々に重なれハ、」とあるように1回や2回でなかったようです。

一向一揆の力のもと
 狼藉を受けた鳥居さんは、「鳥居一類相集リ」とあるように、寺中には鳥居さんの家族やら親類やら奉公人やらが居り、一類を形成していたようです。鳥居一類によって家臣たちは、一度はやられてしまいますが、家康の「恥辱雪ぐべし」との許しを得て、逆切れをして、再び本證寺に乱入します。その時に「鳥居か庫蔵を打破り、財宝悉散乱し、金銀青銅を投捨つれは」とあるように、鳥居さんの財産をめちゃめちゃにしたようです。財宝の中で「青銅」とは何のことなのか、気になりますが、鳥居さんはけっこうな財産家であったようです。
 この時期、渡りでの収入や寺中での金融業はけっこう盛んだったことがうかがえます。家康に抵抗した三河一向一揆は、こうした力を背景にして起こったと考えられます。