愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

長久手古戦場(3) 長久手市

2014年04月18日 15時54分41秒 | 長久手市
武蔵塚
 次の見学地は、武蔵塚です。古戦場公園の西へ100メートルほど行くとありました。小高い丘のようなところがあり、桜の木がたくさんあり、今頃は花見で人が集まるところではないか、と思えました。

森長公の石碑

 武蔵塚とは、長久手の合戦で戦死した秀吉方武将森長公(ながよし)の墓です。森長公は、本能寺の変で織田信長とともに亡くなった森欄丸の兄です。現地案内板によると、森長公は、武勇に優れ異名として鬼武蔵と呼ばれていたそうです。武蔵塚は、その武蔵にちなんで名づけられたそうです。

森家の子孫による石碑
 その横にもう一つ石碑がありました。


 森氏の子孫が、明治31年に建てたものです。コケなどでほとんど字が見えませんでしたが、「子爵」、「明治31年」あたりははっきり読めました。

長久手古戦場(2) 長久手市

2014年04月15日 14時26分29秒 | 長久手市

勝入塚(しょうにゅうづか)
 古戦場公園に、もう一つ石碑がありました。勝入塚です。勝入塚とは、ここで戦死した池田恒興の墓です。池田恒興は、先にも書きましたように羽柴秀吉側の武将です。岩崎城での戦いでは有利に進めましたが、後から攻めてきた家康の部隊と戦い、「仏が根の戦い」で戦死してしまいました。天正12年’1584年)のことです。
 勝入というのは、池田恒興の法名勝入斎からきたものだそうです。

勝入塚は国指定遺跡
 驚いたことには、この勝入塚がなんと国指定の遺跡だったことです。そういえば、「勝入塚」という地名も残っていて、昔からこの地に、池田恒興の墓があったことがうかがわれました。すごい。

長久手古戦場(1) 長久手市

2014年04月14日 14時24分35秒 | 長久手市
 退職をしましたので、今日初めて皆さんが仕事をしている日に休みました。なんか申し訳ないような気分ですが、史跡めぐりには絶好の日和です。ただ、月曜日なので資料館や図書館がお休みなのが残念です。

 さて、今日は長久手古戦場を訪れました。長久手市とは、尾張の北東部にある小さな市です。


小牧・長久手の戦い
 ここは、羽柴秀吉と徳川家康が戦った長久手古戦場があります。「小牧・長久手の戦い」は、以前「岩崎城」を見学した際に紹介したと思います。
 改めて、戦いについて概略を述べます。
 織田信長が明知光秀に本能寺で討たれ、自害しました。(天正10年・1582年)その後、信長の家臣同士の争いとなり、羽柴秀吉と徳川家康が戦ったのが「小牧・長久手の戦い」です。
 初め、犬山(羽柴軍)と小牧(徳川)で、両者は対峙していましたが、羽柴秀吉は敵の本拠である岡崎を攻撃しようと池田恒興らを先鋒にして、岩崎城方面へ兵を出しました。岩崎城付近で秀吉側・池田恒興は、家康側・丹羽氏重、加藤景常らを討ちますが、家康もこれに気付き、兵を長久手方面に出してきました。
 秀吉軍と家康軍は、こうして長久手で激しい戦いとなりました。この戦いで死者は3000人以上といわれています。また、秀吉の部下、池田恒興、池田元助、森長可が戦死しました。

 ホームページ「長久手観光案内」に史跡めぐりの地図が掲載されていましたので、それにそって見学しました。


古戦場公園
 まずは、古戦場公園です。ここには市郷土資料館があります。

中に入りたかったのですが、今日が月曜日休館日でした。

古戦場のジオラマ
 公園には古戦場のジオラマがありました。

手前の銀色の看板にジオラマの説明がありました。しかし、あまりイメージは湧きませんでした。

道しるべ
 公園内を歩くと、おもしろい石がありました。道しるべだそうです。右が「いぼ」左が「やくさ」とあります。伊保、八草が古くからあることが分かりました。



織田信興自害の記録 信長公記 巻3

2014年04月13日 08時35分46秒 | 歴史史料
 織田信興が古木江城で自害したことについて、信長公記に記録があります。

 信長公の御舎弟織田彦七<1>、尾州の内こきゑ村に足懸かり拵(こしら)へ、御居城のところに、志賀御陣に御手塞ぎの様体見及び申し、長島より一揆蜂起せしめ、取り懸かり、日を逐(お)つて、攻め申し候。既に城内へ攻め込みしなり。一揆の手にかかり候ては御無念とおぼしめし、御天主へ御上り候て、霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり。

<1> 織田彦七 織田信興のこと。織田信興は、織田信秀の七男。

長島一向一揆は全国的な戦いの一環
 この記録で、気になるところは、一揆勢が「信長が志賀(滋賀)で戦っていて、手一杯であること」を「見及び申し」といっているところです。一揆が一地方の蜂起ではなく、大坂本願寺が全国的な状況を見ながら、一揆に対して指示をしていたと見受けられます。

天主という言葉
 さらに、信興が一揆の手にかかって死ぬのは無念だと、「御天主」に上って自害したというところの「御天主」という言葉です。
 私は、以前城というものは天守閣があって、石垣があるものだと思い込んでいたので、以前なら見過ごしていたところですが、天主という言葉は、一般的には織田信長が天正7年(1579年)に造った安土城の天主からと言われているそうです。
 信興が自害したのは元亀元年(1570年)11月21日ということなので、この天主という言葉はまだ当時は使われていないと考えられます。つまり、信長公記が天正7年以降の成立であることが分かるということです。太田和泉(信長公記作者)が当時(江戸初期)の言葉を使って表記したのでしょう。

古木江城址 愛西市

2014年04月12日 18時11分48秒 | 愛西市
古木江城とは

 古木江城とは、織田信長が長島に対する押さえとして築城した城です。信長の弟の織田信興を城主としました。元亀元年(1570年)石山の本願寺から全国の門徒にたいして「信長は仏敵である。蜂起せよ。」との大号令が顕如より出され、石山戦争が始まりました。長島の真宗門徒も立ち上がり、ここに長島一向一揆が始まりました。

古木江城 織田信興自害する
 長島の一向一揆衆は、古木江城に押し寄せ、城主である織田信興を攻め、ついに自害させてしまいました。また、桑名城の滝川一益を敗走させました。
 信長は、当時近江国で朝倉・浅井と戦っており、長島に救援に行くことができませんでした。

古木江城址がある富岡神社の祠