愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

東氏館跡 岐阜県郡上市

2014年08月21日 10時08分29秒 | 岐阜県
 8月3日、岐阜県の東氏館跡を訪れました。

案内の地図には、「古今伝授の里フィールドミュージアム」という名称になっていました。

古今伝授の里とは
 古今伝授の里とは、かの有名な歌集古今和歌集を後世に伝授しているという意味です。
 古今和歌集は、紀貫之(きのつらゆき)の選により平安時代にできたものです。これをはじめは公家の二条家で受け継いでいたようです。やがて二条家の後にはその弟子たちによって伝えられ、弟子の尭孝(ぎょうこう)が、東常縁(とうのつねより)に全ての秘伝を伝え東常縁は古今和歌集の権威となったそうです。
 さらに東常縁は、文明3年(1471年)美濃国妙見宮(みょうけんぐう 現在の明建寺)にて、連歌師宗祇(そうぎ)に秘伝を伝えたそうです。それでこの地を古今伝授の里と呼んでいるわけです。

芸は身を助ける?
戦わずして城を取り戻した東常縁
 東常縁のお城は篠脇城といいます。東氏は、この篠脇城を中心に鎌倉時代承久の乱以後9代250年美濃郡上の地を治めていました。しかし、応仁2年(1468年)美濃国守護代斉藤妙椿に攻められ、郡上の地を取られてしまいます。
そのとき、関東に出兵していた東常縁はこれを聞き、斉藤妙椿に歌を送ったといいます。
 
 あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき  

斉藤妙椿はこの歌を見て、東常縁に領地と城を返したそうです。


篠脇城のある山

東氏館庭園跡

 朝倉氏諏訪館跡の庭園を思い出しました。こちらのほうが空池が小さかったです。篠脇城はこの後ろの山にあります。ふだんはふもとの館に住んでいたようです。

明建寺の「薪能くるす桜」
 さて、この東氏館跡にて例年8月7日「薪能くるす桜」が上演されているそうです。場所はこの史跡の隣の明建神社です。昭和50年代に東常縁を顕彰する能「くるす桜」の台本が見つかり、それを再現しようと昭和63年大和町商工会議所青年会が中心となり、上演したそうです。それ以来毎年8月7日に上演されているそうです。

薪能が上演される明建神社

御燈移し
 その薪能開催の前の週には、「御燈移し(みあかしうつし)」がおこなわれるということです。薪能の篝火を運ぶ行事で、篝火には現在三つの火が使われているそうです。
 一つは「千葉家の火」。東氏の来郡に同道した千葉家では、現在の明宝村(大和町の隣村)寒水に居を構えた折に熾した火を、700余年を経た現在まで絶やすことなく灯し続けているといいます。その火を分火してもらい薪能会場までの20数キロ、駅伝リレーで運ぶそうです。
 もう一つが「白山の火」で、「くるす桜」の原曲は白山長滝寺の僧が関与していたと考えられ、それに因んで霊峰白山の頂上で太陽の火から採火し、30人前後のパーティで白山登山をし、いったん白山長滝神社に火を供え、そこから会場の明建神社までは一般参加者を募ってウォーキングリレーをして運ぶそうです。
 最後の一つは「篠脇の火」。東氏館跡庭園で地元の子ども会が太陽の火から採火するそうです。

 ちょうど私たちが訪れた日は「篠脇の火」の採火の日でした。雨模様の日で太陽の日から採ることができないので、火打ち刀を用いて行っていました。




このあと、当地にある施設を見学して帰路につきました。

越前大野城 福井県大野市

2014年08月20日 06時14分26秒 | 福井県
天空の城 越前大野城
 7月20日、福井県、越前大野城を訪れました。
 越前大野城と言えば、霞の中に凛とそびえる「天空の城」と言うイメージが最近あるようです。


 この写真は、親しくさせていただいている、ブログ「越前若狭の城と考古学」からのものです。愛知県でよく似ているお城として小牧城をイメージさせます。しかし、気象条件がそろうと、雲海に浮かぶ大野城が出現し、それこそ「天空の城ラピュタ」を彷彿させるようです。この大野城を全国にアピールしようと「ラピュタの会」があるそうです。
どんな城か、行ってみました。

越前大野城縄張り図

 武具蔵があったと推定される場所にあった看板です。絵の左側が現在残されている部分ではないかと思います。図の橙色の部分の大天主、小天主、天狗の間、天守閣の周りに塩硝蔵。武具蔵、麻木櫓などが亀山という山にあったのではないかと思われます。図の右下の二の丸は、現在有終西小学校になっていると思われます。

西からの階段は心臓破り
 今回は西のほうから登城しました。国道158号線がお城の西を走っているからです。


 航空写真で見るとよく分かりますが、西のほうから登城するには、とても急な階段を上らなくてはなりませんでした。途中で3回ぐらい息切れがしてしまい、休憩を余儀なくされました。


写真に見える階段の右に更に急な階段がありました。

天守閣
 登って改めて天守閣を見ました。

なかなか立派な城でした。

城から大野市を展望できました。


大野城 歴代城主
 大野城の城主は大略以下のようです。
天正3年(1575年)、金森長近(かなもりながちか)
 金森長近は、はじめ隣の犬山にあった戌山城に入部しています。戌山城から新しく城を亀山に構えたようです。天正14年(1586年)金森氏は飛騨高山に転封となります。

その後、長谷川秀一(はせがわひでかず)、青木一矩(あおきかずのり)、織田秀雄(おだひでかつ)、土屋氏が2代、小栗正勝(おぐりまさかつ)と続きました。

慶長6年(1601年)からは松平氏。4代続きました。

寛永8年(1631年)からは土井氏。土井氏は明治を迎えるまで城主を務めました。

 その中で土井利忠(どいとしただ)という城主は大野藩に功績があったようで城内に碑が建てられていました。

土井利忠の像

松平郷(4) 豊田市

2014年08月07日 07時34分31秒 | 豊田市
 松平郷最後の見学地は松平城です。
 松平城は松平東照宮を少し下ったところにありました。松平郷への入り口にある駐車場を越えたら、すぐに右に曲がるとほどなく松平城址の看板が見えてきます。

道の右側に目立つように立てられている案内掲示板。

縄張り図

入り口には縄張り図もありました。(これは山の頂上に同じものがあったので、それを写したもの。ふもとの入り口の縄張り図は、苔むしていてかなり見にくくなっていました。)

 案内板によると曲輪が4つありました。下から順に登ることにしました。

これは、曲輪4です。奥のほうは行き止まりになっていて、櫓台になっていました。

櫓台跡です。右の建物はあとから建てられたもので、櫓とは関係ありません。奥の方の木の間から下を見ましたが、松平郷が一望の下に見えました。


曲輪3です。やや小さい曲輪でした。


曲輪2です。細長い曲輪でした。雨が降って、水たまりができていました。今は歩道のようになっていました。


そして、主郭です。主郭には、愛知県の史跡の石碑がありました。

松平郷(3) 豊田市

2014年08月07日 07時04分27秒 | 豊田市
高月院
 この松平東照宮をさらに登っていくと高月院があります。松平氏の菩提寺です。

高月院山門

松平家三人の墓

 高月院の裏に松平家の墓がありました。周りより一段と高いところにピラミッドのように建てられたのは、初代松平親氏、親氏の子ども2代目泰親、4代目親忠の夫人だそうです。4代目親忠の夫人が親氏、泰親と同等に並んでいるのはふしぎですが、この3人は別格のようです。



松平郷(2) 豊田市

2014年08月07日 06時43分00秒 | 豊田市
家康の産湯井戸
 さて松平氏の資料館を出て山の方に少し登っていくと、どこにでもありそうな「○○が産湯に使った井戸」というのがありました。ここは松平郷なので家康が産湯に使った井戸というのがありました。


松平親氏銅像
 さらに、右手の山を登ると、こんどは銅像が建っていました。松平親氏の像です。


 この象は親氏が領地を見回っているときの姿だそうです。刀を差して、ぞうりを履いて、まるで領主とは思えない姿です。私には織田信長が若者のときに「うつけ」と言われながら領内を回っていた事を思い出しました。よく似ていると。ただし、どちらも暴力団が自分のしまを回って、狼藉者や逃げ出す者がいないかを取り締まっている図にも見えました。

松平太郎左衛門家の墓所
 この象の奥に松平太郎左衛門家の墓所がありました。