愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

挙母(ころも)城跡 豊田市

2015年11月09日 20時04分58秒 | 豊田市
せっかくの週末でしたが、あいにくの雨。どこへも出かけられませんでした。
そこで、昔行った史跡をアップします。
挙母城跡です。
挙母藩主内藤政苗(まさみつ)が築城を計画しましたが、洪水や一揆、藩内のトラブル等でこの地での築城を断念し、現在の七州城に城を建てることになりました。挙母城は、築城途上で幻となりました。今は、隅櫓の跡が残っているだけです。

隅櫓の石垣 よく見ると右側(西側)の石垣は斜めになっています。左側(北側)は、きちんと積まれています。

北側の石垣

不思議でした。

所在地 豊田市元城町
見学日 2015年8月26日

歴史
七州城 豊田市 参照

名古屋市の戦争遺跡 名古屋市中区

2015年11月07日 20時02分41秒 | 名古屋市中区
遺跡名 第三師団司令部跡・煉瓦塀
見学日 11月7日(土)
所在地 名古屋市中区三の丸一丁目

戦争遺跡バスツアー
愛知県教職員労働組合協議会共済と愛知県退職教職員の会の共催によるバスツアーに参加しました。名古屋市の戦争遺跡をぐるっと見て回ろうという企画です。


今回は、以下の9つの遺跡を回りました。

①第三師団司令部跡・煉瓦塀
②名古屋陸軍造幣局千種製造所跡・碑
③三菱重工業名古屋発動機製作所
④名古屋陸軍墓地移転地(平和公園)
⑤名古屋高射砲隊笠寺陣地跡
⑥三菱重工業名古屋航空機製作所本館
⑦愛知航空機(株)永徳工場スリップ
⑧愛知時計電機(株)慰霊碑
⑨名古屋陸軍造幣局熱田製造所建物

全部を紹介するのは大変なので、①についてのみ紹介します。

第三師団司令部跡・煉瓦塀
明治20年(1887年)、第三師団司令部庁舎が名古屋城三の丸に新築されました。第三師団司令部は、およそ東海3県を管轄し、この地方の陸軍部隊の中心でした。
この名古屋城付近には、陸軍の施設がたくさん建てられました。二の丸に歩兵第六連隊、三の丸東には、東練兵場、騎兵第三連隊等々


この煉瓦塀は、第三師団司令部庁舎の南側の塀です。その一部が残っていました。思ったより低く、高さは1メートルぐらいでした。「これじゃあ乗り越えられるよ。」と、説明をしていただいている方に質問すると、「立派な中の建物が庶民にも見えるようにするためにわざと低くしてある」とのことでした。「江戸時代のお城と同じだ」と思いました。

野田城跡(3)二の丸、三の丸 新城市

2015年11月06日 14時30分56秒 | 新城市
自然の堀 杉川
二の丸から三の丸に行こうとしましたが、草が生い茂っていて、踏み込むことができませんでした。そこで、しかたなく野田城の周囲を巡ってみることにしました。城跡の北には杉川が流れていました。現在は護岸工事がされ、コンクリートになっていましたが、昔は天然の堀として機能していました。

杉川

のんびりと杉川の辺りを歩いていますとテンのような動物がいました。イタチかもしれません。すぐに山の方に行って消えてしまったので、シャッターチャンスがありませんでしたが、大変いいものを見させていただきました。

三の丸
ぐるっとまわって、もと来た道路を歩いていると、なんと三の丸から入れる道がありました。「やったあ」


三の丸をずんずん進んでいくと、途中で溝みたいなものが横たわっていました。おそらく三の丸と二の丸の間の堀と思われます。(「愛知の山城ベスト50」)深さは、50センチメートルぐらいでした。

二の丸と三の丸の間の堀の跡

二の丸
さらに二の丸を進んでいくと、今度は段差がありました。「愛知の山城ベスト50」の縄張図では、二の丸に段差が描かれていましたので、その段差ではないかと思いました。


二の丸にあった段差。本丸方面が高くなっていました。

東三河に来ますと、武田や今川との関係が出てきて、西三河や尾張には無い物語がありました。特に武田との関係は興味深く、宮城野さんの「風は山河より」を読みたくなった見学でした。

野田城跡(2)本丸 新城市

2015年11月04日 21時43分01秒 | 新城市

野田城跡平面図

入り口付近
例によって、駐車場が分からず、回りを一周してしまいました。結局二の丸の南に入り口があり、道路の脇にとめることにしました。すぐ入り口が見えました。入り口には、神社の鳥居のような門が作られていました。


二の丸への入り口


入り口のある道路の反対側に土塁のような高まりがありました。

二ノ丸と本丸の間の堀
入り口から二の丸に入ると、さっそく堀が見えました。二の丸と本丸の間の堀です。



こちらは、本丸と二の丸の北側の堀です。


土橋です。両側に柵が設けられていて、堀に落ちないようになっていました。

本丸の土塁
本丸に入るとまず土塁が目に付きました。


本丸南西の土塁上に建っているのは、「野田城跡」の石碑です。

本丸北西の土塁。上には祠が建っていました。

信玄狙撃場所
本丸には、信玄を狙撃したという場所がありました。



上記本丸の狙撃場所の看板。内容は、

伝信玄公、狙撃場所 笛の音に誘われた武田信玄をこの付近より火縄銃にて狙撃した。その銃は銃身だけが設楽原歴史資料館に展示してある。新城市教育委員会

とありました。

本丸東側
さて、本丸を東の方に進んでいきますと、土塁の跡のようなものが見られました。


また、進んでいくと本丸の南側に堀のような遺構がありました。

この堀に沿って東の方に進みますと、平面図で「侍屋敷」北の道に出ます。本丸の堀の東側に土塁状の平坦な土地がありました。これが、平面図でいう「侍屋敷」なのか、土塁なのかは分かりません。


笛の盆

さて、お城の見学をしていると、本丸に「笛の盆」という幟が立っていました。なんだろうと、ネットで調べましたところ、やはり武田信玄狙撃事件と関係したものでした。長篠の戦いの設楽原とこの野田城を伊奈街道で結び、地域を盛り上げていこうという趣旨のものらしいです。すばらしいです。頑張ってください。

野田城跡(1)紹介 新城市

2015年11月03日 07時12分21秒 | 新城市

北の方から見た野田城跡。田んぼと山の間に杉川という川があります。

見学日 2015年10月31日(土)
所在地 新城市豊島字城山


青い線は、だいたいの伊奈街道(いなかいどう)です。伊奈街道は、津具(つぐ)から、豊橋までの街道で、三州街道(さんしゅうかいどう)とも呼ばれていたそうです。野田城は、北に長篠城、南に吉田城につながり、伊奈街道をおさえる拠点として機能していたようです。

歴史
築城 菅沼定則(すがぬまさだのり)。永正5年(1508年)に築城の計画を開始しました。菅沼定則は、初代野田菅沼氏です。
廃城 家康が関東に移った際に、野田城主であった菅沼定盈(すがぬまさだみつ)も移ったので、野田城は廃城となりました。天正18年(1590年)

歴代城主 定則-定村-定盈

関係する武将
菅沼定則(すがぬまさだのり) 今川氏に属していました。

菅沼定村(すがぬまさだむら) 今川氏に属していました。弘治2年(1556年)奥平貞昌が今川氏に反旗を翻したので、奥平貞勝(おくだいらさだかつ)勢と戦うため、額田郡雨山(あめやま)に軍を出しましたが、敗北し、討ち死にしてしまいました。

菅沼定蜜(すがぬまさだみつ) 桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)の後、徳川氏の味方になりました。永禄4年(1561年)今川氏に攻められ落城し、定盈は、親戚の西郷氏の元に逃れました。永禄5年(1562年)、野田城を夜襲し、今川氏によって城代となっていた稲垣氏を討ち果たしました。野田城を奪還しました。元亀2年(1571年)、武田軍の攻撃にあい、定盈は、城に火を放って城を開けたそうです。(この戦いは、天正3年(1575年)の戦いという説もある)元亀4年(1573年)、野田の戦いで、武田軍に敗れ、武田方に捕らわれるが、人質交換で徳川方にかえることができました。天正3年(1575年)、長篠の戦いで、定盈は鳶の巣山(とびのすやま)奇襲隊に加わり、手柄をあげました。

野田城の戦い
「元亀4年(1573年)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。」(現地案内板より)

 なお、この戦いで、武田信玄が城中の笛の名手・村松芳休の笛の音に聞き惚れ、城壁近くまで出てきたところを鳥居三左衛門に狙撃され、これが元で死に至ったという伝説も伝わっています。
 また、武田信玄は、この戦いの後病状が悪くなり、亡くなったそうです。信玄にとって、この戦いが最後の戦いとなりました。


信玄像(Railstation.netより)