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北の方から見た野田城跡。田んぼと山の間に杉川という川があります。
見学日 2015年10月31日(土)
所在地 新城市豊島字城山
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青い線は、だいたいの伊奈街道(いなかいどう)です。伊奈街道は、津具(つぐ)から、豊橋までの街道で、三州街道(さんしゅうかいどう)とも呼ばれていたそうです。野田城は、北に長篠城、南に吉田城につながり、伊奈街道をおさえる拠点として機能していたようです。
歴史
築城 菅沼定則(すがぬまさだのり)。永正5年(1508年)に築城の計画を開始しました。菅沼定則は、初代野田菅沼氏です。
廃城 家康が関東に移った際に、野田城主であった菅沼定盈(すがぬまさだみつ)も移ったので、野田城は廃城となりました。天正18年(1590年)
歴代城主 定則-定村-定盈
関係する武将
菅沼定則(すがぬまさだのり) 今川氏に属していました。
菅沼定村(すがぬまさだむら) 今川氏に属していました。弘治2年(1556年)奥平貞昌が今川氏に反旗を翻したので、奥平貞勝(おくだいらさだかつ)勢と戦うため、額田郡雨山(あめやま)に軍を出しましたが、敗北し、討ち死にしてしまいました。
菅沼定蜜(すがぬまさだみつ) 桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)の後、徳川氏の味方になりました。永禄4年(1561年)今川氏に攻められ落城し、定盈は、親戚の西郷氏の元に逃れました。永禄5年(1562年)、野田城を夜襲し、今川氏によって城代となっていた稲垣氏を討ち果たしました。野田城を奪還しました。元亀2年(1571年)、武田軍の攻撃にあい、定盈は、城に火を放って城を開けたそうです。(この戦いは、天正3年(1575年)の戦いという説もある)元亀4年(1573年)、野田の戦いで、武田軍に敗れ、武田方に捕らわれるが、人質交換で徳川方にかえることができました。天正3年(1575年)、長篠の戦いで、定盈は鳶の巣山(とびのすやま)奇襲隊に加わり、手柄をあげました。
野田城の戦い
「元亀4年(1573年)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。」(現地案内板より)
なお、この戦いで、武田信玄が城中の笛の名手・村松芳休の笛の音に聞き惚れ、城壁近くまで出てきたところを鳥居三左衛門に狙撃され、これが元で死に至ったという伝説も伝わっています。
また、武田信玄は、この戦いの後病状が悪くなり、亡くなったそうです。信玄にとって、この戦いが最後の戦いとなりました。
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信玄像(Railstation.netより)