日中でも、気温が、5℃を超えることのない寒い一日。
本日は、朝9時上映の映画『沈黙-サイレンス』を観に、相方と隣市シネコンヘ。
月曜の朝・・・だというのに、お客さんは、結構、入っていました。
この映画の原作である遠藤周作さんの『沈黙』を読んだのは・・・もう随分と昔のことで、ユーモア作家だとばかり思っていた狐狸庵先生のキリスト教をテーマにしたこの作品や、歴史小説『マリー・アントワネット』なども同時期に読んだような気がします。
本当に、随分、昔の話で、私は、たぶん、モーセの『十戒』のような神の奇跡を期待していたのだと思います。
物語は、静かに終わりました。
そこに神の奇跡は、描かれていなかったのです。
映画の冒頭は、ヒグラシの鳴く声ではじまり、やがて、ヒグラシの声は、消え、スクリーンから、音が消えます。
『神の沈黙』なのでしょうか。
全編を通して、音楽というものがなかったような気がします。
周波数の関連で、日本人の耳と欧米人の耳とでは、聞こえる帯域が違い、私たちが心地よく感じる虫の声などは、欧米人にとっては、煩い雑音にしか聞こえない・・・と聞いたことがあるし、日本人が英語を習得するのに、苦労するのは、やはり音声帯域によるものが大きいと聞いたことがあります。
沈黙・・・音ということひとつとってみても、なかなかに、興味深い作品のようです。
江戸初期の長崎、島原、五島。
キリスト教布教のため、渡航してきた宣教師、日本国内のキリスト教信者(切支丹)への弾圧は、過酷を極め、その棄教をせまるキリシタン目付の拷問は、苛烈を極めて行きます。
かつての自分達の師であったフェレイラ神父の棄教を知ったイエズス会の若き宣教師のロドリゴとガルペは、キリシタン禁制の日本へ入国します。
日本には、弾圧を逃れて、かくれキリシタン村があることを知ります。
村人は、弾圧に耐え、殉教する者、或いは、棄教する者もいました。
切支丹だと言いながら、弾圧に負けて、何度も棄教したキチジローの姿は、ユダなのでしょうか?
どんなに祈っても、神は、現れませんでした。
目の前で、苦しみながら死んでいく村人。
彼らを弾圧するのは、柔和で、弱々しい井上築後守。
村人を弾圧するも、築後守は、ロドリゴを拷問にかけることはせず、ひたすら忍耐強く、力なき村人達を殺して行きます。
『パードレが、棄教すれば、村人は、助かるんですよ。』
と嗤いながら。
祈り続けるロドリゴの前に・・・神は、初めて、沈黙を破ります。
それは、本当に神の声だったのか、ロドリゴ自身の声だったのか・・・。
モノでも宗教でも・・・。
日本人は、なんでも取り入れて、自分達の原型に合うようにしてしまうようです。
日本で、宣教しても、キリスト教の形を取りながら、キリスト教とは、別のものに。
村人は、ロザリオや十字架を象った小枝、イコン・・・形あるものを欲しがりました。
神は形ではないことを、ロドリゴは、教えたかったのでしょう・・・このとき、何かが違う・・・と思ったのかもしれません。
結局のところ、日本という土壌は、沼地のようで、キリスト教は根を張ることができず、腐ってしまう・・・筑後守は、言い放ちます。
築後守役のイッセー尾形さんが秀逸でした。
そう言えば、映画『太陽』では、昭和天皇を演じてましたね。
上映時間約2時間40分。
上映時間の長さを感じさせない濃密な作品でした。
末筆ながら、物語(映画)の中に、登場するイエズス会が、武闘集団で、布教と植民地開拓を行っていたということを、最近知りました。
神は、いつまで、沈黙をまもるのでしょうか?