友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

誰もわかっていない

2008年03月15日 22時51分57秒 | Weblog
 娘たちは白馬にスキーに出かけた。我が家は私とカミさんの二人だけになった。カミさんは一昨日からゴホン、ゴホンとやっていたと思ったら、熱が出て「アカン」と臥している。どうやら、2月から出かけていた学校で子どもたちから風邪菌をもらってしまったようだ。孫娘も娘もいないのだから仕方がない、今晩の夕食は私が作らなくてはならない。

 冷蔵庫を見ると、お酒のつまみになるようなものしか残っていない。そんなもので、おかずを作り、一杯飲んでブログに向かっているから、何をやっているのか怪しいものだ。友だちのブログを見ていたら、“みんなわかっていない”ということが書かれていた。私が昨日、ブログを書き終わったのは午後11時過ぎだから、彼は私のブログを読んでからではなく、彼自身の心情の吐露というべきものだと思う。彼は次のように書いていた。

“誰も分っていないんです。男と女の友だちというものが、いわば、男と女のユニセックスの関係が、誰も全然分っていないんです。多分、ありふれた男と女の皮相しか見ていないと思うのです。その先にある人間と人間の友情を、誰も分ろうとしないんです。

 今いちばん、二人にとって悲しむべきことは、男と女の関係ができなかったことじゃなくて、悲しい辛い思い出が残ることでもなくて、何も思い出として残らないことが、いちばん悲しいことなんです。心動かす思い出作り、人と人が出会うとはそういうことなんです。

 12年間のあなたとの思い出は、数え切れないほど、私の胸に詰まっています。
忘れるはずはないんです。あなたとの思い出の日々を。だから私は、本当に幸せなんです。”

 私は彼のこの言葉を何の疑いもなく真実だと思っている。昔から、彼はヘナヘナしているくせに純粋だった。彼はユニセックスを大事にしてきたと私も思っている。ただ私には、なぜユニセックスでなければいけなかったのか、彼がそう望んでいたのか、それとも彼女がそう望んでいたのか、二人ともそう望んでいるように演技していたのか、もう、残りいくばくもないのだから、正直になってもいいのではないのか、そんな気がする。

 そんなことを言うと、彼が本当は彼女と肉体的にも一体となりたかったのだというように聞こえてしまうけれで、そう言いたくないけれど、彼が心の底で何を望んでいたのか、正直に知りたいとは思う。

 先日、川端康成の『眠れぬ美女』を基にしたドイツ映画を観てきたけれど、眠っているだけの少女に触ってみたいとは思わなかった。できることなら、生きている人と「恋」をしていたいと、私は思った。私も彼のように、彼女とのたくさんの思い出があればそれでいい、そう思いながら、いいや思い出というような形ではなく、チャタレー夫人のような見えるものが欲しいと思ってしまう。そこが彼の純粋さと比べて、私の世俗的な欲望の強さというか醜さだと思う。

 『眠れぬ美女』の少女たちは、確かに美しかったけれど、美しいだけに、彼も私もそれだけでは心奪われないだろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする