友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人はなぜ人を殺すのか

2008年03月26日 23時32分03秒 | Weblog
 茨城県土浦市の8人殺傷事件、その前にもどこかは忘れてしまったが、商店街で若い男が次々と通りにいた人に切りかかった事件があった。岡山でホームから人を突き飛ばして殺したのも18歳の少年だった。いったい、人はなぜ、こんなにもたやすく人を殺傷してしまうのだろう。私は一度も人を殺したいと思ったことはないけれど、嫌な人に対して、早く死んでくれればよいのにと思ったことは正直に言えばある。

 私は中学1年から、自分からキリスト教会に通う人間だったから、思うことそれ自身が行為と同じことであると教えられた。罪を犯さない人はひとりもいないから、人は救いを求めることを知った。人の心の中には、人を愛する心と憎む心が同時に存在している。憎むだけならばまだよいが、憎しみが次第に高じて人をも殺すようなことになれば、それはやはり尋常ではない。イヤだと思うことや憎いと思うことと、殺してやると思うことは全く違う。

 人が人を殺してしまうのはなぜなのか?山極寿一さんの『暴力はどこからきたのか』(NHKブックス)をタイトルに引かれて読んでみたけれど、人間の暴力性がなぜ生まれてきたのか、よくわからなかった。山極さんは「人類は家族を作った時代に、分かち合う行為を確立した」と分析する。「家族は互酬性の通用しない場だから、親はまったく見返りを期待せずに子に食物を与え続けるし、子は親に感謝の意を示すことはない」。分かち合うものは食べ物であり、分かち合うことで互酬的な関係が生まれたと説明する。さらに、「家族内で性行為を禁じられる娘を作り出して、他の家族との間に娘を交換する互酬性を作り出した」。

 ここまではまあなるほどと思った。ここで言う「家族」は現在の私たちの「家族」の形とは違う。「家族」という名の集団といってもよいと思う。それでは、人間の持つ「暴力性」はいったいどこから生まれてきたのか?「なぜ、大量殺戮を辞さないほどの苛烈な戦争が人類に起きるようになったのか。それは、言語の出現と土地の所有、そして死者につながる新しいアイデンティティの創出によって可能になったと私は考えている」と山極さんは言う。死者につながる新しいアイデンティティとは、言ってみれば共同体と見ていいのではないかと私は思うけれど、この共同体は民族であったり、国家であったり、あるいは同一の信仰であったりするのかもしれない。

 要するに、人類が人類として、他の動物と違った成長を遂げてきた原動力が、人類を破壊するものをも内にも育ててきたということであろう。私たち人間は言語を手に入れ、そのために急速な発展を遂げてきた。けれども発展は同時に、破壊・破滅への道でもあったということだ。「誰でもいいから殺したかった」。そんな動物はこの世では人間だけだ。
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